いやぁそれほどでも、とどちらともとれる曖昧な謙遜をしつつ、内心、まんざら間違いでもないなと思った。十歳上の夫はどうひいき目に見ても「王子様」ではないがやさしい人ではあるし、小学生になった息子も二歳の娘も五体満足、近所に住んでいる義理の両親との仲も悪くない。それなりに苦労もした気がするけれど、周囲―だれか知らないが、いわゆる世間の人たち―から言わせれば、そんなものは苦労のうちに含まれないようだ。いまでは、私自身もそう考えるようになっている。
 うちなんて大変ですよ、と言いながら、中村さんはバッグから携帯用のウェットティッシュを取り出し、クッキーの粉末がついた指と口の端をさりげなく拭った。なるほど、ここからが本番らしい。気を取り直して相槌を打ちながらも、私の視線は彼女の手元に吸い寄せられていた。ティッシュのパッケージは妙に主張が強く、アメリカン・コミックじみた吹き出しの中央には「99.9パーセント除菌」と書かれている。
 あのころ、こういうものがもっと一般的だったら、あの子も少しは生きるのが楽だったかもしれない。
 でもしかたのないことだ。人はだれも、生まれてくる時代や場所を選べないのだから。

 十七歳だった。
 当時はまだ三姉妹で、それぞれ十五歳と、十三歳になる妹がいた。
 いかにもドラマティックなその年齢が実際もっとも印象深いということ自体、私の人生の平坦さの証だろう。ただ、そこに至るまでになにごともなかったわけでもない。父親の仕事の都合でほぼ二年から三年ごとに引っ越しを繰り返していたので、幼稚園も小学校も中学校も、一か所では卒業できなかった。
 父ははじめての娘だということもあって私を溺愛していて、ピアノの絵本を愛読していたという理由で三歳の娘にグランドピアノを購入し(最後の引っ越しのときに母親が愚痴をこぼすのを聞くまで、私は転勤族の一家にとってその選択がいかに無謀か理解していなかった)、その折々で通っていた教室で発表会があるたびに新しいドレスを買ってきては、ビデオカメラ持参で客席の最前列中央に陣取るような人だった。どうせ一度しか着ないのにと渋面を作る母をよそに、子供用のクローゼットには淡いピンクやラベンダーやミントグリーンの、妖精みたいな衣装が着々と増えていった。
 それらは何度目かの引っ越しの際、荷物になるという理由で母がまとめて処分した。
「いつまでもお姫様気分でいたら、下の子たちに示しがつかんから。いっちゃんも、もうお姉さんやろ?」
 私の名前はいずみでもいくえでもいつこでもない。長女だから一番、関西風に発音すると「いっちゃん」。母が呼びだしたその愛称には妙な浸透力があって、家族内のみならず、行く先々の友人にまでいつのまにか定着しているほどだった。
 母の心配が杞憂だったとまで言う気はないが、どこまで現実的だったかはわからない。二歳下の次女はピアノやドレスにはまるで興味を示さなかった。机に向かって図鑑や本を読んだりドリルを解いたりするほうが好きな子で、実際に頭もよく、ちょうど父の最後の転勤と自分の中学受験が重なったときも、有名な進学校に難なく合格して母を喜ばせた。そのとき私たちは十五歳と十三歳と十一歳―たまには数え直さないと曖昧になってしまう。賃貸のマンションですし詰めになりながら一年ほど暮らし、慌ただしい空気に波風が立たないよう、私は当初考えていた音楽科のある私立ではなく、無難な公立高校の普通科に入った。やっと家を購入する話が出たころになって今度は三女の進学があり、しかも我らが(当時の)末っ子は次女とは正反対に成績も素行も優等生とは言いがたかったので、両親は思いのほか苦労させられたらしい。
 そんなわけで、実際に引っ越すまでにはさらに一年あまりかかった。私たち姉妹はそれぞれ、高二と中三と中一。
 左右を坂道に挟まれてぐるりと平行四辺形を描いている、奇妙な住宅街の、まさに坂の途中。そこにようやく我が家と呼べる場所が完成した。正門は坂の上方にあり、煉瓦造りの洋風の門構えに古風な扉と表札が備え付けられていた。まるで、自分は新参者ではない、だから受け入れてほしいと周辺の家々に向かって健気に主張しているみたいに―でも、子供向けの薄いウエハースそっくりのその色合いはあきらかに、それらが真新しいということを示していた。そこからチョコレートの見本市のように様々な色の煉瓦を重ねた塀が坂と並行して続き、一か所だけラムネ色の外枠の郵便ポストがぽっかり空いているのを除けば、坂の終わりにせり出したガレージと庭までを守っていた。
 庭は、家の規模に比すると大きいほうだったと思う。はじめ手入れをしていたのはもちろん母だったが、しだいに娘たちみんなで―いや、妹たちはそれぞれ忙しかったので、おもに私がその役割を担うようになっていった。引っ越したてだったし、芝生が広がっているだけでそう手のかかる場所ではなかったから、嫌ではなかったがただ不思議だった。それまで母が草花に興味を示すところなど、見たことがなかったのだ。家に観葉植物が置かれていた記憶もないし、ベランダ園芸にすら手を出さなかった。
「ずっと憧れてはいたんじゃない? これまではどうせ引っ越すんだし、なにか育てても無駄だと思ったんでしょ。娘たちが大きくなってきて余裕もできたし」
 あっさり言ったのは次女だ。まだ中学生にもかかわらず、まるで自分が母の立場をとっくに経験しているような、確信を持った口調だった。なるほど、と思った。実のところ、私は彼女の言葉に「なるほど」以外の感想を持ったことがない気がする。

(つづく)