第一話 赤い小鳥【7】

【試し読み】『きみはだれかのどうでもいい人』で話題! 伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』

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ピンク色なんかこわくない

ピンク色なんかこわくない

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…いっちゃんは、処女じゃないんだね」
「どうしたの、いきなり」
「大人の女みたいなこと言う」
「そりゃあ女だもの」
「うそだ、うそばっかり、ほら女だから!」
 妹は駄々っ子のように足をばたつかせ、私はかつて祖父母の家で見た、夏休みのアニメ番組を思い出していた。追いかけっこをするうちにいつのまにか断崖絶壁から飛び出してしまったキャラクターが、自分の体が虚空に投げ出されたことにも気づかず必死で足をばたつかせる。状況を自覚しひとたび止まったが最後、あとははるか下界へと真っ逆さま。
 しばらく妹の爪先があがく様子を眺めてから、私は顔を上げて微笑んだ。
「そんなこと、どう証明すればいいの?」
 妹は嫌悪と、少しの期待とともにこちらを見下ろした。
 でも、その視線は私の顔、あれだけきれいだと褒めてくれた場所を通り越して、死角になった下半身のほうにばかり向いていた。膝から伸びるむっちりと脂肪がついた太腿、誘うようにめくれたスカートの奥。そこにあるのはただの穴だよ。
 ねえ、私たちこんなに毎日、汚いものばっかり体に入れて生活しているじゃない。排気ガスや副流煙や口臭混じりの他人の吐息やウイルスだらけの空気を吸い込んで、添加物や土や泥や汗や唾液のたっぷりついた食事をとって血肉にしているじゃない。いまさらこんな場所になにかを入れたからって、それがどうだっていうの?
 もしかしたら、ずっとだれかにそう言いたかったのかもしれない。でもだからといってそれを妹、壁際に逃れていまにも食べられてしまいそうな顔で震えさえしているあの子に、直接ぶつけるわけにはいかなかった。
「出てって」
「じゃあ、どこで寝ればいい?」
「ピアノの部屋にでも行けば!」
 変な言い方、と思わず笑うと、妹はすかさず傍にあった枕を拾い上げ、力いっぱい私の頬めがけて投げつけた。梯子を下りて床を見ると枕はスリッパの上に落ち、そのうちのひとつは枕に弾かれて部屋の端まで吹き飛んでいた。
 ドアを閉めてから、私は両手で顔を覆ってみた。そのまま廊下を歩いてみる。足でも滑らせないかと期待したけれど当然そんなことは起こらず、嗚咽を堪えるように息を吸い込むと、アルコールの刺激臭越しに赤ん坊みたく乳くさい妹の肌が匂い立った。

 リビングにはソファもあるのだからそこで眠ればよさそうなものだけど、私はピアノの下に潜り込み、引っ張り出してきた来客用の掛け布団にくるまってそこで眠った。たとえば妹が様子を窺いに来たとして、私がやわらかいソファでのびのびと体を伸ばしているのを見たらショックだろうと思ったのだ。他の家族に目撃されたら面倒だという不安より、たったひとりの失望に天秤の針が振れたのが我ながら不思議だった。
 いつものように仰向けでいると、ピアノの脚とペダルにかかとや頭をぶつけてしまう。胎児の姿勢をとって目を閉じると、長年使われていない布団の湿った匂いがした。カビ。息をするごとに雑菌が鼻や口から入ってくる。そのまま吐き出されるかもしれないし、吸収されて血に溶けるかもしれないし、ふわふわ漂って体の奥まで辿り着くかもしれない。
 鍵盤はちょうど頭上にある。現うつつから夢への移動の時間つぶしに、私は脳内のそれで自分のために子守歌を弾いた。でも好みの曲はテンポが速くて安眠があまり望めない。いつも使っているメトロノームを思い浮かべ、刻まれるリズムを呼吸に合わせてゆっくりと落としていく。馴染んだ曲を早弾きや遅弾きで演奏して斬新にアレンジするのは、幼いころのあの子も気に入っていた遊びだった―こ い は き ま ぐ れ の の こ と り―あ な た が わ た し を き ら う な ら―わ た し が あ な た を す き に な る
 私に惚れられたら、気をつけなさい。