第一話 赤い小鳥【4】

【試し読み】『きみはだれかのどうでもいい人』で話題! 伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』

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ピンク色なんかこわくない

ピンク色なんかこわくない

伊藤 朱里

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 ふいに彼が「あ」とつぶやいて立ち止まったので、私もそれに倣った。
「どうしたの?」
「パンクしたかも」
 ちょっと見てみていい、と彼が指さしたのは、数メートル先にあった児童公園だった。もう遅かったので人気はまったくなく、街灯の位置が微妙なせいでそこかしこが暗がりに沈んでいた。いちばん闇の濃かった奥のベンチに並んで座り、彼が屈んで自転車の前輪を確認する様子を、私は黙ってとなりで眺めていた。
 風はないけれど気温の低い夜で、じっとしていると芯から震えがきた。さむい、とつぶやくと彼が頭を上げ、帰るのかと思った矢先に腰に手を回され体を引き寄せられた。
 一瞬で唇同士を的確にくっつけてみせたのは彼の年齢にしては見事な業わざだったけれど、あまりに性急な勢いに上唇がめくれて歯がぶつかりそうになった。彼は少し口を離すと私をますます強く引き寄せ、空いた左手で私の右手を掴んだ。
…震えてる」
「寒いからね」
 答えるとまた「好きだよ」とキスをされた。返事になっていないことが気になりつつ、私は至近距離で彼の顔を眺めた。目を閉じて唇を動かす仕草はいつもの賢そうな様子とは違ってずいぶんまぬけというか珍妙で、キリンとかゾウとか、ふだんは近づけない動物の顔を拡大して見せられているような心地になった。目を閉じるのも忘れたまま考えていた―私はまた、知らないうちになにかを「振りまいて」いたんだろうか。いや、付き合っているんだから必ずしもそうとは限らないか。それにしても恋人同士のこれってお買い物みたい。「好き」一回でキス三秒、三回で舌を入れても可、五回で首から下および腰から上のどこに触ってもOK。おそらくこれが「愛してる」になれば一回でそれ以上。欲しいものを手に入れるためにこつこつと積み上げる。堅実な人だ、将来はいい夫になるだろう。
 好き、が五回まで重なり、スカートと靴下のあいだに鳥肌が立ってきた。いったいどこまでこの「お買い物」は続くんだろうか。そして、彼は寒くないんだろうか。
…なんでそんな、平気な感じなの」
 不満げにつぶやかれてやっと、自分がうわのそらだったことに気がついた。
「平気というか」
「というか?」
「寒くない? パンクはもう直った?」
 眼鏡の奥でかっと目が見開かれた。あ、と思ったときにはもう手遅れだった。
 彼はいきなりがばっと体を離し、私はバランスを崩してベンチに倒れ込んだ。彼は立ち上がり、さっきまでとは打って変わって剣呑な声で言った。
「なにそれ。帰りたいわけ?」
…え?」
「おまえさ、なんなんだよ」