第一話 赤い小鳥【6】

【試し読み】『きみはだれかのどうでもいい人』で話題! 伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』

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ピンク色なんかこわくない

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 きっと妹たちは知らない。幼稚園児だった私が聞いたままを母に伝えてしまって以来、母の足はますます自分の実家から遠のいた。そのときパニックになって私の頬をいきなりひっぱたいたことを、母はきっともう忘れているだろう。もしくは、私のほうが覚えていないと思っているかもしれない。
「うちも来年は落ち着かないと思うから。あたしも久々のことで、いろいろと不安もあるし。下ふたりはわりと順調だったけど、今回は時間も空いたし」
 まさかねぇ、と母は苦笑したが、その笑みはどこか勝ち誇って見えた。
「いっちゃんも、いまから自分のことをよく考えておかないと。どうしたい?」
 頭の中で、天秤はゆらゆらとぶれつづけていた。きょうはよく揺れる日だなと思った。これまでだったら、なにか二択の出来事があればどちらを選ぶべきかは明白だったのに。さっきは錘をいきなり外され、今回は急に新たな錘が降ってきた。
「お母さんは、どっちがいい?」
 私としては、当然の質問をしたつもりだった。
「私が関西でおじいちゃんおばあちゃんの面倒を見るのと、このうちにいてあの子たちやお父さんの面倒を見るのと。どっちが都合がいいのかな」
 突然、母は踏みつぶされたようにぎゅうっと顔をしかめた。眉間や口元に集中線じみたしわが寄り、いきなり十も二十も老けて見えた。
「なに、その言い方。そんなふうに思ってたの」
 私はとっさに母の背後にいる、鏡の中の自分を見た。笑っているんじゃないかと思ったからだ。当然そんなことはなく、鯉みたいな丸い目と半開きの口がこちらを向いていた。なんだか腹の立つ顔だな、と考えつつ母に視線を戻すと、やっぱり腹を立てられていた。
「こっちはあんたがあんまりぼんやりしてるから、心配して言ってやったのに。あたしが一度でも『お母さんの望みどおりにしてくれ』なんて頼んだことある?」
 私は自分の人生を早送りで回想した。たしかに、口に出してそう頼まれたことはない。ほんとだ、とひとりで感心しているうちに、集中線はますます深くなった。
「あんたがあたしの望みどおりになったことなんか、一度もないでしょうよ。小さいころからピアノにばっかり夢中になって、月謝やらなんやらお金もかかるし」
 部屋を替わってほしいと言われた日、母がピアノを「かさばるもの」と呼んだことを、ふいに思い出した。結果的に私はうなずいたわけだが、おそらくあの程度のことは「望みどおり」にはカウントされないのだろう。
 反射的に「ごめん」と言いながらも、母の使った「夢中」という表現に込められた熱意や愛情は、どうも私自身の実感から遠いものだなと思った。与えられたから続けて、止められなかったからやめなかっただけだ。そういえば妹たちは水泳やら新体操やら目新しい習い事に次々と惹かれ、頼まれてもいない、どころか頼み込んでまで始めてはすぐ飽きてやめてしまった。その気持ちも、私には理解不能だった。
「またぼんやりして。いい? あたしはね、あんたの人生なんやから好きにしなさいって言ってるのよ。ひがんだようなこと言うのはやめてちょうだい、気分悪い」
…そうね」
「もういい。自分がどうしたいかくらい、自分でよく考えなさい。いつまでもそんなふうにヘラヘラしてたら、なにされたって文句言えんよ。だからあんたばっかり変な目に遭うんちゃう? 他の子はそんなことなかったやろ」
 それはそうでしょう。だって、私のあとを通っているんだもの。
 私がなにをして怒られてなにをして白い目で見られて、なにをして、なにもしなくても、どんな目に遭ってきたのか、あの子たちは、ぜんぶ知っているんだもの。
「そうね」
 話が終わって部屋を出る間際、思いのほか近くで小さく吐き捨てる声がした。
「なによ、『お父さんの面倒見る』って」
 振り向くと母はいつのまにかドアノブを握り、私を金輪際そこには入れまいとするように睨んでいた。第三の「妹」が作られた、父と母の寝室。
「あんた、うちを乗っ取りでもするつもり?」
 否定する前に、強い力でドアが閉められた。