下の妹とは、さほど接点がなかった。
 たしかに、ぼんやりしているわりにはたまに家出や喧嘩といった大胆なことをしでかす子で、父や母が彼女がらみのトラブルで青い顔をしながら出かけていくのもたびたび目撃はしていた。ただ、家の中では口数も表情も乏しく、どちらかと言えば勝ち気で弁の立つ次女のほうが目立っていたこともあり、私にとってはいてもいなくてもあまり変わらない存在だった。母に「仲がいい」と言われたとき、返事が一拍遅れたのはそのせいだ。
 ただ、あの子のほうはなぜか私になついていたらしい。
 ピアノを練習しているとよくそばに来てじゃれついてきたし、両親に叱られたり上の妹と喧嘩したりするたびに私のもとに逃げ込んできた。私自身、もちろん慕われて悪い気はしなかったのでそのままにしていた。でも、それは他人の家のペットをかわいがるようなもので、本気で彼女のためを思って叱ったり、将来について心配したりしたことはない。ただでさえ両親が揃ってかかりきりなのだから、私までかまってやる必要はないと考えていた―いや、そこまで深くあの子について考えてすらいなかったかもしれない。
 間近に目にするその様子は、たしかに尋常じゃなかった。
 まず、ハンカチ越しにノブを握ってドアを開け、その場で制服をすべて脱いでハンガーにかける。それから下着姿のまま、セーラー服の襟の下やスカートのプリーツの隙間まで逃すまいとするように、濡らして絞ったハンカチでまんべんなく拭う。カバンは自分の学習机の下にしか置かず、うっかり勝手に動かそうものなら半狂乱になった。そしてシャワーを浴びに行く。ベッドに横になるのは、必ずそれらを済ませたあとだ。
 二段ベッドの上段は、あの子の聖域だった。いかなる汚れもそこにだけは届かせまいとするように、細心の注意を払っているのは傍目にもあきらかだった。必然的に私は空いた下段を使うことになったが、一度、疲れて帰った私が制服を着たままそこでうとうとしていたら妙な揺れを感じた。地震かと思って目を覚ますと、青ざめた顔の妹がベッドの柵をスリッパの底で蹴っていた。容赦のない蹴り方に反して、その表情は小鳥が閉じ込められた籠の扉を、強引にこじ開けようとでもしているみたいだった。
「ダメだよいっちゃん、きょうはまだ水曜日なんだよ?」
 意図するところはすぐにわかった。そのころ、シーツやベッドカバーの類は週末に母がまとめて洗濯するのが習慣だったのだ。だからあの子も、土曜の夜になると清潔な布団にくるまれて比較的調子がよさそうだった。
 機嫌のいい理由はもうひとつあった。あの子は土曜の夜に放送される連続ドラマを妙に楽しみにしていて、放送の十分前から部屋に置いたテレビをつけ、チャンネルを合わせて待機しているほどだったのだ。私も一緒になって見るともなく見ていた。ウイルスだか細菌だかのせいで大人が死に絶えた街を舞台に、生き残った子供たちが独自の絆を築いていくというSF的な内容で、売り出し中の男性アイドルがたくさん出ていた。でも、妹の目当てはそこではなかった。
「ちょっと憧れる、こういう世界」
 妹はそのドラマを見るとき、必ずベッドの上で三角座りをしていた。それが彼女の流儀だった。二段ベッドの梯子の脇には、そこに上るとき以外は絶対に脱がないスリッパがきちんと揃えてあって、私はそれを眺めながら、緊急出動命令に備える消防士みたいだと思った。そのスリッパもふたつ使っていた。帰宅して入浴を終えるまでのあいだに履いておくものと、それ以降に履くもの。
「汚くない気がする」
「でも、この子たちお風呂も入れてないわよ」
 ベッドの下段で横になりながら私が言うと、沈黙が降ってきた。的外れな答えだったらしい。あの子の言う「汚い」は、必ずしも衛生面を意味しなかった。水拭きのしすぎで表面がてかりを帯びた制服や、部屋のそこらじゅうに放り出されている雑巾のようにカラカラになったハンカチやタオルの数々を見れば明白だった。
「いっちゃん、きょう学校でだれかに触られた?」
 唐突な質問にも、数日も経てばもう驚かなくなっていた。
「いいえ。勉強して帰るだけだもの」
「男が触った場所を触ったり、男の座った椅子に座ったりは」
 そこまではわからないと答えると、信じがたいというように絶句された。まるで、私が凌辱でもされたみたいな反応だった。
「いっちゃんのまわりにいる人は、汚い気がする」
「なにそれ、ひどいな」
「だって、いっちゃんはきれいだから。みんな言うよ、うちでいちばん美人だって」
 みんなってだあれ、と訊きたかったが黙っていた。あの子にとっては二、三人、いや、たったひとりの言葉だって、琴線に触れればそれが世界中「みんな」の総意なのだ。

(つづく)