演奏が止まった。
 そしてメトロノームも止まった―違う。足音だ。ひそめた息に合わせて、ゆっくりとこちらに近づいてくるスリッパの音。それが、横になった私の頭上で途切れる。
 衣擦れの音。すっぽりと被っていた布団をずらし、こちらを覗き込んで息を呑む音。夜行性の動物のようにするりと足元へ滑り入る音。下からそろそろと布団をめくりあげる音は、一緒に肌の露出する心もとなさと夜気の冷たさを連れてくる。部屋からそのまま出てきたので、私は長袖のネグリジェ一枚だった。
 ついに布団が完全にはぎ取られる。寒さに身じろぎした足首を静かに摑まれて仰向けにされ、そのままコンパスみたいに左右に開かされた。あいだにできた空間に、だれかが割り込んでくる。ちょうど妹たちに大きいピースを分けてあげた後、お皿に残った誕生日ケーキくらいの角度。覚えのある動作、でもこんなにちょっとしか開けなくて大丈夫だっけ? ネグリジェの裾から手が入り込む。私は寝るとき下着をつけない。無防備に現れた場所に、細い指が触れた。
 なにかを探し当てようとしている。それ自体は予想できたけど、感触は覚えのないものだった。おずおずと腿の付け根をさまようそれは不安げで、むしろ、なにも見つからないでほしいと願っているように感じた。
 なにをやっているんだろう?
 相手があの子であることには、もう気がついていた。戸惑っているうちに指を挿し込まれ、がさがさに乾いた表皮がこすれ合う痛みに私は思わず腿を閉じた。
 沈黙。妹の浅い呼吸の音だけが、ピアノの下の空間に粘っこくこもって響いた。
 ネグリジェの前が、緞帳みたいにするすると上がった。鎖骨あたりに濡れたものが押しつけられ、汗ばんだ手のひらでゆっくりと伸ばされていく。それは肌の上でぬめりながら温まり、すぐに乾いてひんやりと鳥肌を立たせた。よくわからない感覚に翻弄され、漏れそうになった声を飲み込むとつんとアルコールの刺激臭がした。
 さらなるぬめりと一緒に、妹の手が胸まで下りてきた。右のふくらみをくるくると指でなぞられると、冷たく粘っこい風が螺旋階段のように上っていく。あるだけで恥ずかしい突起の近くまで至ると、その風は速度を落としてねっとりと肌をなぶった。べとついた指が乳首を遠慮がちにつまむと、自動的に小さく腰のうしろがふるえた。
 妹は左の胸や他の部分も、ジェルで愛撫していった。自分の制服を水拭きするときくらい、あるいはそれ以上の執拗さだった。わずかな隙間も作るまいと、乳首や胸の谷間を舐めるように転がし、おへそや肋骨のくぼみに菌を殺すヴェールを広げていく。ところどころに散らばったアトピー痕に触れると、そこをとくに丁寧に、ジェルをぶあつく増量して撫でさすった。悪いものを殺し肌を守る魔法を幾重にも被せながら、指は下へ下へと至り、ふたたび太腿のあいだへと分け入ってくる。
 ぬれてる。
 安堵したようなつぶやきが聞こえた。それから女の体でどうやらそこがいちばん気持ちいいとされる部分を、ぬるりとした指が慎重に横切っていった。何度も何度も、その都度べたべたと薬を足しながら。
 唐突に、私はすべてを理解した。
 この子、私が処女かどうか調べようとしているんだ。なるべく痛みを与えずにそこを確かめようと、そのために私を「濡らそう」としている。
 なんてバカなんだろう。まさかここまでとは思わなかった。こみあげた笑いをどうにか堪えようと喉を反らしたとき、いつのまにか全身に張り詰めていた感覚が一気に昇りつめてきた。妹が私の身体に、白い閃光を放つ爆発物でも仕込んでいたように―いや、それは生まれたときから私の体内、細胞に血液に神経に、じょじょに溜めこまれた不純物だったのかもしれない。妹の湿った指が触れるごとに、かたちを変えて、はじける。
 魔法の呪文を唱えたように、足が動く。
 光と音が消えたら、あとには空洞が残った。
 そしてそこに、あの子が入ってきた。ゆっくりと舐ねぶるように入れられながら、私は部屋のものをすべて捨てたあとみたいな虚脱感と開放感にぐったりと身を任せていた。
…あかい」
 指を抜いた妹が、慄いたようにつぶやいた。
 今度こそ吹き出してしまった。そんなわけないでしょ。短い悲鳴と、ごづっという鈍い音が聞こえた。いたっ、という声とともに妹の体が降ってくる。目を閉じたままでもなにが起こったのか明白だった。頭をぶったんだ、ほんとにしょうがないなぁ。そっと妹の背に腕を回し、手探りで後頭部を撫でてやる。
 最初は強張っていた体が、手を往復させるごとに少しずつほぐれるのがわかった。
 妹が背中を反らした。離れていくのかと思ったけど、彼女を抱いている腕は振りほどかれなかった。そしてふいに、なにかが私の口元に触れた。最初は指かと思ったけど、こちらの唇を割って舌を撫でる感触は、これまで肌を愛撫していたものとは違った。粘っこく濡れてはいたけど、菌を殺す冷気も射るような刺激臭もなく、いやしいほどに塩辛く、獣じみて血なまぐさく、果物のように甘かった。
 それを私の歯のあいだから引き抜くと、妹はまた、あかい、と言った。
 ねえ、とささやきかけると、口元に顔が寄せられた。ぎりぎりまで妹の耳が近づいてきた気配を確かめてから、私は唇を開き、毒を流し込むように告白した。
「本当は私、したことあるの」
 びくんと一瞬凍りついたあと、妹は「…うん」とつぶやいた。知ってた、とでも言いたげに。あらそう。なら、これは知っている?
「あなたのベッドで、あなたのいないあいだに」
 あなたがきのうの夜、もしかしたらさっきも、その体を包んでいたあのシーツで。