夫の浮気で“狂った”妻…生々しく愚かな人間を巡る評伝

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狂うひと : 「死の棘」の妻・島尾ミホ

『狂うひと : 「死の棘」の妻・島尾ミホ』

著者
梯, 久美子, 1961-
出版社
新潮社
ISBN
9784104774029
価格
3,300円(税込)

書籍情報:openBD

あの事件の真相が語られる?! 名作が生々しく甦る大傑作

[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)

 島尾敏雄の『死の棘』を読んだのは、大学生のときだ。当時、虚実入り混じったスキャンダラスな私小説として評判になっており、興味本位で手に取ったのだと思う。濃密な描写に引きずられるように読みふけり、この作品から「男女の愛」について一つの定見を得たように思ったのだ。

 ノンフィクション作家の梯久美子が『死の棘』のヒロイン、島尾ミホに興味を持ったのは浜辺に立つ一人の老女、ミホの写真を見たことによる。彼女もまた作家であると知り『海辺の生と死』『祭り裏』の二作を読んで会いたいと思ったという。

 インタビューをしたのは、平成十七年から翌年にかけてのことだ。ミホはこのとき八十六歳。夫で『死の棘』の著者である島尾敏雄とは十九年前に死別していた。

 四回目の取材の折、ミホは『死の棘』の冒頭部分、彼女が精神の均衡を失った事件の真相を語りはじめる。小説の中で執拗に繰り返される夫への詰問と束縛。その始まりがなんであったかを、小説ではなく当人が告白しているのだ。梯は懸命にノートに書きとる。彼女の半生を書きたいと申し込み、協力を快諾したミホだが、このインタビューを最後に、取材は突然中止された。

『死の棘』は、第二次世界大戦末期、奄美群島の加計呂麻(かけろま)島に特攻艇「震洋(しんよう)」部隊の隊長としてやってきた敏雄と代用教員だったミホが愛し合い、出撃の直前に終戦を迎え、結婚し、子どもを儲けながら、夫の浮気で妻が正気を失った後の凄絶な生活を描いている。日本文学大賞、読売文学賞、芸術選奨を受賞した島尾敏雄の代表作である。死の崖っぷちから幸せの絶頂へ、その後どん底に落ちていく夫婦の姿のすさまじさは、いまだに多くの読者を魅了している。

 一度は評伝を諦めた梯だが、ミホの死後、夫妻の長男で写真家の島尾伸三氏の了承を得て取材を再開する。きれいごとにせず、見た通り、考えた通りに書いてほしいという返事をもらい、奄美に残された島尾家での遺稿・遺品整理に参加した。

 残されていた膨大な資料を詳細に検討し、敏雄とミホが残した作品や手紙などと突合せ、『死の棘』には何が描かれていたか、二人の間にはどのような信頼と裏切りがあったのかを具体的に積み上げていく。

 それは今までの文学評論とは全く違う生々しく愚かな人間を辿る旅になった。初めて公開される資料や写真には『死の棘』でさえ穏やかだと思える妄執が渦巻いていた。評伝作品の大傑作であると断言する。

新潮社 週刊新潮
2016年11月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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