花に埋もれる

花に埋もれる

  • ネット書店で購入する

「あのひと、何年か前に純文学小説の新人賞の最終候補になってるでしょう。それが剽窃なんじゃないかって問題になったんだよ。ああいや、剽窃って言っても、そんなおおげさな話じゃなくてね。芥川賞候補作が無名の小説を参考文献にしててグレーゾーンだって批判されてたことあったでしょ? そんな感じ。『盗作でもオマージュでも剽窃でもない嫌らしさがある』みたいな。大学のエライ人って外聞を気にするからさあ、グレーだけど黒じゃないし、悪いことないんだけど、高遠クンも居づらくなっちゃったんじゃないかなあ」
 さらに詳しく聞いてみると、高遠先生はW文学部発行の同人誌に載った学生の作品を参考に小説を書き、そうとわからないように新人賞に投稿したのではないかと言われているらしかった。坂田教授は「ぼくはあの人はそういうことする人じゃないと思うけどね」と首をかしげていた。ほっとする夏生を見透かしたように坂田教授がつづける。
「だって学生に人気なかったもーん」
「えっ? そうなんですか?」
「学生の作品をそれとわからないようにパクるなんて、あの人らしくないとぼくは思うなあ。学生に冷たい人じゃん? 大学生なんて成人した大人なんだから放っておけって感じでさ、論文書けないですーとかメンタルの不調がーとかぜーんぶ自己責任って切り捨てるタイプ。学生の作品なんてぜんぶ見下してそうじゃん」
 それはまたも夏生が抱いていた彼への印象とまったくちがって、夏生はとまどいながら、
…うちの大学では、すごい人気でしたよ」
 と言った。今度は坂田教授が驚く番だった。彼は高遠先生のK大学での様子を根掘り葉掘り聞いてから、「あー、でもたしかに。オンラインになって、学生からの人気不人気ってずいぶん変わったもんねえ」と納得したような声を出した。
「ワタシも対面のときは結構人気あったんですよ。講義取る学生が少なかったっていうのもあるけど、教養科目でほとんど少人数ゼミみたいなことしててね。そういう授業だとワタシ人気なの。でもオンラインだと学生の顔も見えないし、受講数の上限もなくなって一気に500人見てくださいとかさあ、バカじゃないのってことになってるでしょう。そうすると人気不人気が逆転するんだなあ。きみたち、新入生?」
「そうです。2020年度入学です」
「あー今年の新入生はね、やっぱり上とちがうのよ。素が見えないっていうのかなあ。学生と一対一でしゃべる機会、激減したもんね。教員としてもさ、素の自分を見られなくて楽だとは思うんだけど、さびしくもあるし…ごめん、よくわかんないこと言って。うーん、マ、演じやすいもんね」
 夏生は「演じやすい」と鸚鵡返しにつぶやいた。
 ―先生は、なにを演じていたんだろうか?
「アッ、そうだ。これだれにも言ってなかったんだけどさあ、もう3か月前くらいかなあ、コレが高遠先生から送られてきて」
 坂田教授がウェブカメラの画角に収まるようになにかを掲げる。ペットボトルだった。なんの変哲もない。ジュンさんが横で「なんすかそれ」と聞いたのと、夏生が「あ、それ」と反応したのは同時だった。
「コロナが治る水」
 坂田教授と夏生の声が重なる。ジュンさんが噴きだす音がした。洗濯物に顔をつっこんで咳きこんでいる。鼻水が服に垂れるのが見えて、夏生はきたなっ、と体を後ずさらせた。iPad越しにわいきゃい騒ぐ夏生たちを放っておいて、坂田教授は「こういうのも、バレねえもんなあ」と目を細めた。
 その声には達観している大人特有の諦めみたいなものが混じっていた。「どういう意味ですか?」と尋ねてみたが、次の授業があるからと話を打ち切られてしまった。
 話を聞かせてもらった礼を言うと、坂田先生は「行方はわかんないけど、ロシア・フォルマリズムについてならいつでも聞きにおいで」と応じてくれて、Zoomの画面が終了した。ホーム画面に戻った画面を無意味につつきながら、夏生は押し黙ってコインランドリーの外に出た。ひさしのぎりぎり内側にある自動販売機の前に立つ。ジュンさんがついてきて、後ろから小銭を入れてくれる。悩んで、アイスコーヒーのボタンを押した。2本出てきた。ジュンさんにあげる。むすっとしたままコーヒーのプルタブをいじる夏生を元気づけるように、
「いつでも聞きにきなって言ってもらえてよかったじゃん」
 ジュンさんが伸びをしながら言う。コーヒーの缶は結露して、指先が冷たかった。
 夏生は「ウーン」とうなって、自販機にもたれかかった。機械の熱で、じんわりあったかい。話を聞くたびに、高遠先生という人が遠くなっていく。K大学で(主に女子に)人気だった高遠先生と、元カノの語る神経質な高遠先生と、坂田教授が言う学生に冷たい高遠先生が、うまく線で結べない。実像がぼやけていく。
「ウーンだけどさあ、夏生ちゃんが探す必要あるの?」
 とジュンさんが結露を拭った手で夏生の首をひやっと触った。飛びあがる。「ちょっと!」と文句を言うと、「お、げんきー」と整えられていない眉が垂れ下がった。ため息をついて、また額を自販機につける。
「必要って」
「だってたかが大学の先生でしょ? そのーなんだっけ、ゆっきーちゃん?」
「柚愛」
「そう、柚愛ちゃん。その子みたいにガチ恋ファンオタ、先生いなくなったら泣いちゃう!みたいなのじゃないわけでしょう。なんでそんなに探してるの」
…ウーン」
 夏生は頭を自販機にぐりぐりと押しつけて、言葉を探した。高遠先生を探す理由は夏生の中にはあるのだけど、それをジュンさんに伝えるのが難しかった。ずうっとはじめから、説明しなきゃいけなくなる。それでも、一番端的に伝えるなら。
「お祖父ちゃんがコロナで死んだんです」
 コインランドリーの中では何台もの洗濯機が回って、ゴウンゴウンと音を立て続けていた。雨は降りつづき、ひさしの下にいても、すねに細かな飛沫があたる感覚があった。
「本が好きな人。遺影でも本もってるくらい、本が好きな人でした。ヴィクトル・ユーゴーも、ギュスターヴ・フローベールも、アラン・ロブ=グリエも、アルベール・カミュも、お祖父ちゃんの本棚で出会った。そこに、お祖父ちゃんは宇宙をもってた。お祖父ちゃんの小説を読んだり、本棚を見たりすることは、宇宙をのぞくことだった。わたしに宇宙をくれた。東京の大学に行くのに賛成してもくれた。なのに、死に目に会えなかった。立ち会えないまま、お祖父ちゃんの宇宙は消えた。…自分が知らないところで、人が死ぬのはこわいよ」夏生は、息を吸いこんだ。どうしよう、とつぶやく。いまさら、どうしようもなにもないのに。「お祖父ちゃんのこと、ひとりで死なせちゃった…」
 言葉が途切れる。この人にしか言うあてがないと途方に暮れ、同時に、これを本当に聞いてほしい人は、もっと遠くにいるとも思った。
 ジュンさんは「よくわかんないけど」と頭を振ってから、「また手掛かり探してさ、あー、あの教授に住所聞こう。ああいう人はめんどうごとが一番嫌いだから、10回くらい聞いたら『めんどうだなあ、もう来ないでくれ』って教えてくれるよ、きっと」と自販機の前に移動した。マジックテープ式の財布から小銭を一枚一枚取り出していく。きっちり130円入れる。
 その様子をぼーっと見ていた夏生に「先生のこと見つけたら、ありがたいふくらみ賜らせてくれます?」と微笑みかけて、ホットココアのボタンを押した。