三日目【13】 「死んだら、だめです」柿谷達彦は訴える。

タニンゴト

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前回のあらすじ

「元彼に付きまとわれている」という女の子を救うため、窃盗の手伝いをさせられるはめになった柿谷達彦。車が事故に遭った隙に逃げ出し、偶然双子の弟・克彦と合流する。警察へ自首する前に被害者に謝るため、二人で窃盗に入った家へ戻ると、家にいた老人は妻に包丁を向けていて―⁉

Photo/Tatsuro Hirose
Photo/Tatsuro Hirose

 老夫婦ははっとしたように柿谷かきたに達彦たつひこに目を向けた。
「夫婦喧嘩じゃなかったんですね」
 老夫婦は答えなかった。
「死んだら、だめです」
「なぜだい」
 老人が言った。片手には出刃包丁を持ったままだったが、声は穏やかだった。
「生きてたって、いいことがあるわけじゃない」
「あるかもしれないじゃないですか」
 そういいながら、柿谷達彦は頭の中で別の声を聞いていた。
 これから、どんないいことがある? 平凡で取るに足らない人生、とりえなど何一つない人生のどこにいいことが?
 しばらくの間、柿谷達彦は老人と見つめ合った。誰も口を開くことはなかった。
 はあ、と老人が大きく、ため息をついた。それから何気なく自分の手を見つめて、そこに握られた出刃包丁を見てぎょっとしたような顔になる。
 老人は出刃包丁を出来るだけ遠く離れた場所に置いてから、かすかに笑った。
「生きていれば、色々なことがあるものだな」
「そうですねえ」
 そう答える老婦人の顔にも、困ったような笑いが浮かんでいる。
 老人が柿谷達彦に向き直った。
「本当は昨日、二人で温泉旅行に行くはずだったんだ。懸賞だか何だかに当たったと招待券が送られてきた。今考えれば、君を騙した空き巣のグループが送りつけてきたんだろう。もちろんそんなことは知らなかった。温泉は海の近くにあってね。本当は、温泉につかって、美味いものを食べて、そこで海に飛び込もうと思っていたんだ。なあ?」
「ええ」
「海へ飛び込むって…、なんでそんなことを」
 克彦の言葉に、老人は首を振った。
「家主から、来月までにこの家を出て行くように言われているんだ。取り壊して、駐車場にするらしい。といっても、年寄りの夫婦二人きりでは、もうアパートを借りるのも難しい。いよいよ二人で老人ホームに入らなければならないかと思っていたが、踏ん切りもつかない。いい施設だと、金もかかるし、二人で入れるところとなると、なかなか見付からない。おまけに、私は心臓が悪くて、治療費も馬鹿にならない」
 老人は嘆くでも悲しむでもない、淡々とした口調だった。
「それで、最後に温泉でくつろいで、楽しんでから死のうと思っていた。ところが、温泉に行く途中で具合が悪くなってしまって、救急車で運ばれて、結局、温泉旅行はフイになってしまった。そのうえ、今朝帰ってきたら、部屋は荒らされていて、空っぽ同然だ。それから二人で話し合った。どうせ死のうとしていたんだ。住みなれた自分の家で、二人で死んでしまうのも悪くない。そう決めたところで、今度は君たちが飛び込んできた」
 そこで初めて、老人は心底おかしそうに笑った。
「まったく、何がどうしてこんなことになってるのやら」
 柿谷達彦はなんと言っていいのかわからないまま、弟の顔に目を向けた。そこには、見たことのないような困惑の表情が浮かんでいた。
 本当に、なにがどうしてこんなことになったのか、さっぱり分からない。