こいごころ

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 秋英が立ち上がり、化け狸の、ころりとした姿を探したが、見つからない。老々丸や場久が、直ぐに影内へ潜って、部屋の天井や床下にまで目を向けたが、田貫屋は姿を現さなかった。
「皆が話し込んでいる間に、また逃げたのでしょうか」
 秋英が眉根にしわを寄せたが、老々丸は首を傾げた。
「あの化け狸だが、我に、後で話があると言ってたぞ。その約束を放り出して、寺から逃げ出す奴とも思えなかったが」
 そして田貫屋狸は、誰かに狙われる訳を抱えていた。大きな寺である広徳寺の、支払いに使う印を飲み込んでいるのだ。
「誰かが、その印さえ手に入れられれば、山ほどの買い物が出来ると、考えたのかもな。田貫屋を狸汁にしたいやからは、今、ごまんといるだろうよ」
 笹丸が悲鳴を上げ、寛朝が頭を抱え、若だんなが床で身を起こした。皆は揃って、大急ぎで田貫屋を探さなくてはと、口にしたのだ。
「田貫屋には何としても、無事でいて貰わねばならぬ。あの印を勝手に使われたら、広徳寺は頭を抱える程の大騒ぎになるぞ」
 優しいのか怖いのか、訳の分からない事を言って、寛朝がうめく。
「おまけに、私と秋英は、今まで化け狸を庇い、悠長ゆうちょうにしていた罪を問われる事になるな。秋英、そうなったら知らぬ存ぜぬで、罪は全部、師の私へ押っつけておくように」
 この広徳寺には、何としても一人、妖を見る事が出来る僧が必要なのだと、寛朝は言う。
「秋英くらいは寺に残さないと、江戸の人達が困るからな」
「師僧一人を、悪者には出来ません。無茶をおっしゃらないで下さい」
 今度は秋英が頭を抱える。一方笹丸は、田貫屋が食べられては嫌だと泣き出した。
 若だんなは布団の上から、場久へ頼んだ。
「場久、長崎屋に、直ぐに来られる妖はいるかな」
 化け狸の田貫屋を探す為には、妖の手が必要だろうと若だんなは言った。直ぐに見つからないということは、田貫屋は、人が探すのは無理な場所に居るかもしれないからだ。
「上野まで来てくれる妖がいたら、集めて欲しい」
 場久は、ちらりと笹丸を見てから、頷いた。だが直ぐ、若だんなへ顔を向け直すと、集めるのはいいが、難しい事になるとも言ったのだ。
「あたしが長崎屋へ帰れば、兄やさん達は、若だんなを見つけたかと聞いてきます。あたしは、隠し事は苦手なんですよ」
 そうでなくとも、何人もの妖達が上野へ向かえば、たとえ場久が黙っていても、兄や達に居場所が分かってしまうだろう。
「そうなったら若だんなは、長崎屋へ帰るしかないでしょう。この後、笹丸さん達と一緒にいる時は、残らないかもしれません」
 それでも良いですかと問われ、若だんなが目を見張る。すると横から、それでもお願いしたいと、笹丸が言ってきた。
「田貫屋さんの命が掛かってます。迷ってる場合じゃないので」
 若だんなは頷く。
「その、場久が、田貫屋さんの事に力を貸して、長崎屋へ戻らずにいたら、後で兄や達から、きっと凄く𠮟られるね」
 上野へ呼ぶ皆も同じだ。もちろん若だんなは妖達を、必死に庇うつもりだ。だが、怒った兄や達は怖かった。だから若だんなは長崎屋の妖達に、こんな頼みごとなど、しないようにしてきたのだ。
「でも田貫屋さんは、急いで助けなきゃいけないと思う。そして私は今、何時にも増して、役立たずなんだ」
 力を貸して下さいと、若だんなは布団の上で、場久へ頭を下げた。
「やれ…若だんなは、相手が妖と分かってて、頭を下げる事が出来るお人なんだよね」
 場久は眉尻を下げ、それから何故か、また笹丸へ目を向ける。そしてその後、唇を引き結び、承知だと言ったのだ。
(あ、れれ?)
 若だんなはふと、戸惑った。
(先から、寛朝様や場久が、笹丸を見てから、随分と優しい態度になってる気がする。思い違いじゃないよね?)
 もちろん笹丸は小さいし、今は、妖としての力が落ちているから、心配なのだろう。だが、それでも。
(何か引っかかる)
 けれど、訳など分からなかった。若だんなは、他の皆が承知していることを、見落としているのだろうか。
(何だろう。どうにも不安だ)
 この不安を、誰に、どう言えばいいのか思いつかない。若だんなは、皆と同じように笹丸を見て、話しているのだ。
 そして今は、若だんなの苛立ちの元を探るよりも、消えてしまった田貫屋を見つける事の方が、大事に違いなかった。兄や達が出張でばってくるのも間近だとすると、広徳寺で踏ん張れる時も、余り残っていない。
(こんな大事な時に、熱が出てるなんて。いい加減、病人で居るのもうんざりだよ)
 もっと役に立ちたいのに、これでは若だんながいる方が、皆の足を引っ張ってしまう。幻のように過ぎた、丈夫だった十ヶ月の思い出が、不意に頭へ浮かんでくる。
 ぐっと心持ちが重たくなって、布団の上に起きて居ることさえ、疲れてきた。
 だが、白旗をげてはいけなかった。ここで寝込んでしまっては、駄目なのだ。若だんなは大丈夫だと三回唱え、それでも己を奮い立たす事が出来ず、更に三回言葉を足してから、背筋を伸ばし、考えを巡らせる。
(こんな時だからこそ、私でもやれることを探さなきゃ)
 布団から半身を起こした格好で、若だんなは真剣に考え込んだ。

(つづく)