こいごころ【1】

【試し読み】960万部突破!「しゃばけ」シリーズ最新作『こいごころ』

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イラスト/柴田ゆう
イラスト/柴田ゆう

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 江戸の通町とおりちょうにある大店おおだな長崎屋ながさきやの若だんなは、ひどく困っていた。
 今日も熱を出し、親と、長崎屋ゆかりあやかし達と、奉公人達から、そろって心配された。それで、またかと溜息は出たが、ちゃんと大人しく離れで休んでいた。
 だが、余り寝てばかりいたものだから、夜中に眠れなくなってしまったのだ。
 長崎屋縁の妖達ですら、皆、寝ている刻限、離れは静まりかえっている。下手に動いたり明かりをけたりしたら、誰かを起こしてしまいそうで、若だんなはためらった。
 しかし一人闇の中にいると、遠い所から、自分を呼ぶ声が聞こえる気がして、何やら恐い。若だんなは、草木も眠るといううし三つ時の、黒一面の中で、ただ眠れず、動けず、溜息をつくことになったのだ。
 すると。
 いつの間にか、眠っていたのだろうか。それとも深夜の闇の不思議に、捕らわれてしまったのか。若だんなは暗闇の向こうから、はっきりとした声を耳にし、目を見張った。
「長崎屋の若だんな、聞こえてるかい? もし、この声が耳に届いてるなら、ちょいと話を聞いて欲しいんだが」
「こん、こん」
 最初の、落ち着いた男の声の後に、何やらかわいい声が続いたので、若だんなは思わず、布団から身を起こした。すると闇の中に、突然ぽかりと、獣の目が二つ浮かんでくる。
「お、おや」
 よく見れば、目は二組あった。大きい目の下に、もう一組、小さめの光が見えていたので、かわいい声の主はこちらかと、若だんなが顔を向ける。
 すると太く低い方の声が、ここは夢の内だと、きちんと説明をしてきた。
「我は北のきつねでな、名を老々丸ろうろうまるという。足下にいるのは、弟子の笹丸ささまるだ」
 そして、こうして夢内から若だんなへ話しかけられるのは、自分が修行の末、神力を獲得した別格の狐だからだと、老々丸は続ける。
「我のような妖狐ようこは、狐仙こせんと呼ばれてるんだ」
 よって老々丸は今まで、大概の事なら、おのれで片付けてきた。いや己一人の事だけで無く、北の妖狐達の事も、長年面倒を見てきたという。それが、狐仙になれるほど力を得た老々丸の、役目だと思ったからだ。
「ところが、だ。ここに来て、一人では、どうにも出来ぬ難問に、ぶち当たってしまったんだよ」
 大きな方の目はここで、小さな二つの目を見つめた。
「我は今、この笹丸を心配してるんだ」
 笹丸は老々丸の妹の血筋で、きっと立派な妖狐になるだろうと、期待されていたのだ。
「だがね、その…」
 言いにくい事があるのか、老々丸が言葉を切ると、その後をかわいい声が語った。
「けれど、われは妖になるのが精一杯。とんと強くなれませんでした」
 心配した老々丸は、特別に、つきっきりで修行に付き合ってくれた。だが、それでも。
「何としてもわれは、力を集められなかったんです。物ですら百年の時を経れば、妖物ようぶつになるというのに、妖狐のわれは人にけるのがせいぜいで、術すらろくに使えません」
 いや、それだけではない。笹丸は、もっと危ういことになっているのだ。
「われは妖の力が、尽きかけてるんだと思います」
 ここしばらくは、小さな子に化けるくらいしか、出来なくなっている。
「そんなわれの事を、師匠は酷く心配してるんです。自分で、情けないです」
 師匠の老々丸は強い妖だから、知った顔の妖狐達が、笹丸の為に動いてくれた。他の狐仙にも教えを請うたし、江戸に出て、稲荷いなり神社の強き妖狐にも頼った。
 だがそれでも笹丸は、力を付けられない。笹丸の為に何が出来るか、身内の老々丸が、決断すべきときが来ていた。
「それで、だ」
 老々丸が、若だんなを見てくる。
 するとこの時、闇の中にぽんと、狐の姿が浮かび上がった。そして真剣な顔をした妖狐が、鳴家やなりくらいしかない小狐の首元を手でつまみ、若だんなに示してくる。
「若だんな、この笹丸の為に、力を貸してはくれぬか」