こいごころ

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 若だんなも承知の通り、妖には寿命はない。だが、命を失うことはあるのだ。その日は、妖が、妖としての力を失った時にやってくる。つまり。
「笹丸は、程なくこの世から消えるのです」
 おそらく老々丸も、そのことを承知している。だから、今は笹丸の好きなことをさせる為、江戸へ来ているのだ。
「荼枳尼天様の庭へ行く為じゃ、ないの?」
「それは、口実でしょう。本気でそう願っているなら、王子の神社に居続けている筈です。おぎん様は、居場所が分からない。王子の化け狐から荼枳尼天様に、じかにお願いした方が早い」
 だが北の化け狐二人は、江戸の、長崎屋へ来た。その訳は。寛朝がふいに語った。
「先に、笹丸が己で言っておったな。あの子は初午祭りの日、若だんなに優しくされて、それはそれは嬉しかったのだ」
 また会いたいと願っていた。それが、妖の力を伸ばす事に必死で、余り遊んでこなかった笹丸の、唯一、心の底から願った事だったのだろう。
 小さな小さな狐が、初めて抱いた思いであったのだろうと、仁吉が続けた。
「だから老々丸は強引に、若だんなの夢内に現れたんだと思います。そして笹丸の様子に気がついた妖達は、怒りを引っ込めました」
 妖は、傍らに居る仲間が、目の前から失せてしまうことに、慣れていないのだ。一旦妖となり、力を蓄えた者は、そう早くは消えたりしないものであった。
「若だんなもまだ、長崎屋の妖を、失ったことはないでしょう?」
 もちろん長崎屋の周りに、この世から消えた妖が居なかった訳ではない。例えば、桜の花びらであった小紅こべになど、長崎屋に現れた後、あっという間に散ってしまったのだ。
「ですが花びらの妖は、元からあの運を背負って生まれた者です。弱って消えた訳ではありません」
 だから、若だんなが嘆きを知るのは、これからだろうと兄や達は言う。
「笹丸は…明日にも、消えるかも知れないの?」
 いや、もう直歳寮には、帰ってこないかもしれない。だから妖達は、老々丸に力を貸した。化け狸が老々丸と語りたがっていたのも、笹丸の話だろう。そして、兄や達は笹丸のこれからを見て取り、怒りを抑えた。
 もし、病の若だんなを疲れさせたと言って、今仁吉達が、笹丸達を𠮟り、その後、直ぐにこの世から消えてしまったら。若だんなは後々までその事を、悔やむに違いないからだ。
「だから皆は、今の笹丸に、とても優しいんだ」
 ということは。
「笹丸を助けるすべは、もう無いんだね…」
 小狐の妖はじき、若だんなの前から消えてしまうのだ。若だんなが言葉を失うと、ここで寛朝が、優しく言ってくる。
「しかし若だんなに会えて、話せて、笹丸は嬉しそうだったではないか。今、皆と田貫屋を取り戻しに行っている笹丸は、とても幸せなのかも知れん」
 もう笹丸に、生き延びる為、頑張れと説教してくる者はいないのだ。寛朝は、若だんなに一つ頼んできた。
「笹丸が帰ってきたら、役に立ったと褒めてやってくれ」
 他の誰から褒められるより、若だんなから優しい言葉を貰うのが、嬉しいに違いない。そう言われて、若だんなは唇を嚙んでから頷いた。
「そうですよね。明るく褒めた方が良いんだ。間違っても、涙なんか見せちゃ駄目なんだ」
 笹丸は今、守られたいのではなく、立派に役に立ったと言われたいだろうから。全く使えない者ではなかったと、思いたいだろうから。
 頷くと、兄や二人は、そろそろ出かけると言う。その背を、床内から見送ろうとした所、何と小鬼達が、表から飛び込んできた。早、帰ってきたのだ。
「きゅい、兄やさん達、大当たり」
「きょわっ、田貫屋さん、いたっ」
「両国のももんじ屋に、吊り下げられてた。笹丸が見つけたっ」
 小狐は、遠慮などしなかった。さっさと店へ入ると、田貫屋を縛っている縄を切って、自分は逃げ出したのだ。
 もちろん、田貫屋も遁走とんそうした。店に吊されていた狸がまだ生きていたので、客達は、魂消ていたらしい。
「ももんじ屋、大騒ぎっ」
「きょべ、店奥に居た、坊さんも騒いだ」
 寛朝が、直歳寮で溜息をつく。
「坊主の身で、ももんじ屋に出入りをしておる者がいたのか。それを恥じぬのか」
 ならば金印を手に入れる為に、殺生をするのもいとわないだろうと、寛朝は漏らす。
「秋英さんと金次達、坊さんのこと、追っかけてる。捕まえるって」
 他の妖達はじき、広徳寺へ帰ってくるだろうと言う。
「笹丸のお手柄を祝って、立派だったと言わなきゃ。田貫屋さんが無事に戻ったら、それもおめでたい話だし」
 すると兄や達が、では祝いの準備をしましょうと言ってくる。寛朝が笑って、直歳寮で祝おうと言ったので、小鬼達が長崎屋へ戻り、他の妖らも呼んでくることになった。
「今日は、皆で楽しく騒ごう。ああ、稲荷寿司も、用意したいな。笹丸は好きだと思う」
 今日が笹丸にとって、最後の祝いの席になってしまうかも知れない。若だんなは、思わず溢れそうになってきた涙を、ぐっと押しとどめ、笑った。
 今日ばかりは、具合が悪くても、祝いの席で皆といたい。だからよく効く薬湯をよろしくと、若だんなは仁吉へ頼んだ。
「分かりました。任せて下さい。今日一日くらいは起きていられるよう、気合いを入れて、特別の一服を作ります」
「あの、その、飲めるものにしてね」
 若だんなが思わずひるみ、鳴家達が楽しげな声を上げる。やっと、顔のこわばりがほどけてきたと思った時、表から駆け込んでくる妖達の足音が、直歳寮へ届いてきた。

 笹丸は、楽しいうたげの最後の方で、まるで初めからそこには居なかったかのように、消えた。
 助けてくれた恩人を失い、しゃくり上げた田貫屋が、口から金印を吐いた。
 その後、一人になった老々丸と、妻を失っていた田貫屋は、田貫屋の店で暫く一緒に暮らす事になった。二人で思い出を語る日がくれば、少しずつ、また歩み始める事が出来るだろうと、寛朝は喜んだ。
「ならお二人とも、長崎屋にも来て下さい」
 若だんなが誘うと、また宴会が出来ると、妖達が喜んだ。だが、直ぐに皆、泣きだしてしまい、直歳寮の内が、号泣に満ちる。もう我慢して、笹丸に笑みを見せる必要もないのだと思うと、若だんなも泣いてしまい、その涙を止められなくなってしまった。
 笹丸が消えた時、妖達も、その場にいたのだ。失う事が、どんなに悲しいか、知ってしまったのだ。
「きゅんいーっ、なんで、なんで?」
 長崎屋の皆は、その後暫く、部屋で急に振り向くようになった。若だんなの姿を探し、見つけては、ほっとしているので、兄や達に溜息をつかれていた。

(了)
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