過去の記憶を失い、どこの誰であるか、自分自身でさえわからなかったメアリさん。途方もない絶望のなかにいた彼女を救った、つぐみの祖母である潔子きよこさんとのエピソードには胸打たれるものがある。メアリさんと潔子さん、このふたりの関係性が実にいい。
 メアリさんはメアリさんとして新しい人生を生き、人々にしあわせな贈り物も遺した。この物語があたたかいのは、「メアリさんはいったいどこの誰だったのか」を下世話に暴く物語ではないからだ。記憶をなくす前の過去の彼女が「本物」で、メアリさんとなった彼女が「にせ」なのではない。潔子さんはかつて言った―「本当のメアリさんがどんな人か、誰かに認めてもらう必要があるの?」と。
 メアリさんは故人だが、この物語を導いてゆくのはメアリさんにほかならない。メアリさんの生き方、在り方が反映されている。物語は、悩み、傷ついた人々に拙速に変化や成長を求めない。いま在る彼、彼女たちを肯定している。物語が彼らに、変わることも成長することも強いないことで、救われる読者は必ずいる。
 それにしても、作中、直接登場することはないのに、人々の口から語られる、あるいは思い出のなかに立ち現れるメアリさんの、なんと魅力的なことか。
 ピンクのリボンがついた古風な麦わら帽子に、全身ピンクの服、名前とは裏腹に純和風の顔立ち。ピンクのミニブタをつれて散歩し、本をいっぱい詰めたキャリーバッグを引いている。温和で、しかし確固たる芯のある老婦人。素敵である。一読して思ったのは、「メアリさんに会ってみたかった」だった。こんなひとが公園に憩い、海辺を歩き、傷ついたひとに寄り添ってくれる。なんて素敵な町だろう。海に近い地方都市の一角を散歩するメアリさんは、非常に絵になる。メアリさんの遺した本はまだまだありそうなのと、「もしかして?」と思わせるいくつかの要素がひそかに書かれているので、続編を期待してもいいのだろうか? ぜひお願いしたい。
 もう一点特筆すべきなのが、ミニブタのムシャムシャ。この物語におけるマスコット的キャラクターだが、著者はこうしたキャラクターを、添え物ではなく生き生きと存在させるのが抜群にうまい。著者の少女小説「伯爵と妖精」シリーズでも、主人公の相棒に妖精のニコが登場する。このニコもたいへん魅力的で、読者に愛されるキャラクターである。「伯爵と妖精」で、主人公の次に好きなキャラクターは、と訊かれたら、私はニコだと答える。ムシャムシャもまた、名前からして魅力的なのだが、物語のなかでぬくもりある光を放つ、愛すべき存在である。
 メアリさんは登場人物たちに印象的な言葉をいくつも残している。私がとりわけ心に残ったのは、蒼に向けた言葉―「あなたも、贈り物よ。誰かが待ってる」。物語のなか、読んだひとの心に響くメアリさんの言葉が、きっとあるだろう。

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白川紺子(しらかわ・こうこ)…作家。著書に、『下鴨アンティーク』『契約結婚はじめました。~椿屋敷の偽夫婦~』『後宮の烏』シリーズ(集英社オレンジ文庫)『三日月邸花図鑑』『九重家献立暦』(講談社タイガ)『京都くれなゐ荘奇譚』(PHP文芸文庫)『花菱夫妻の退魔帖』(光文社キャラクター文庫)など。