午前0時の身代金

午前0時の身代金

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「いや。書庫の本が崩れ落ちただけだよ。驚かせて申し訳ない」
 菜子は入り口の方に目をやり、ほっとしたようにこわばらせていた全身の緊張をといた。顔がまだ青ざめている。
「ごめんなさい。川崎たちが追ってきたのかと思って」
 菜子はよろよろと立ち上がった。
「さすがに、ここには来ないだろう」
「そんなこと、わからない。あの人たち、どんな手段を使ってでも、居場所を調べ出すから」
 疲れ切った表情で、菜子は椅子に座り直した。
「そうか。川崎たちは、本條さんが書類封筒を持って逃げたと思っているから、取り返しにくるんじゃないかと気になってるんだね?」
 菜子は小さく息をついてうなずいた。
「実際に来たんです。家の方には」
 一昨日、ボスに送ってもらって無事家に帰りつき、一息ついた時、菜子の携帯電話がひっきりなしに鳴り始めたという。川崎からだ。音を切り、出ずにいると、「書類封筒を持ってこい。さもないと、どうなるかわかってるな」と、耳をつんざくような怒声が、留守番電話に何度も入った。バイブ音が鳴るだけで背筋が凍る。遮断するため携帯の電源を切ると、今度は家の電話が鳴り始めた。楠木杏の名前しか知らないはずなのに、なぜ自宅の電話番号を知っているのだろう。もしかして、住所も調べられているのではないか? さらなる恐怖と不安が菜子を襲う。家中の戸締りを確認してカーテンを締め、室内に引きこもった。
 翌日、案の定、川崎と数人の男たちが家の周りを取り囲んだ。インターフォンを何度も鳴らされ、生きた心地がしなかったと、菜子は声を震わせた。
「布団の中で丸まって、耳を塞いでいたら、ガチャンと窓ガラスに石が投げつけられたような音がしたんです。ああ、もうダメだ、殺されると思ったら、自分でもどうしようもないくらい身体が震え始めて、全く動けなくて。幸い、家の防犯ベルがけたたましく鳴り始めたから、川崎たちもさすがに焦ったのか、いったん退散したんです。すぐにセコムの警備員の人が来てくれたから、そのまま一緒に家を出て、それから帰っていないんです」
 昨夜はホテルに泊まったのだと、菜子は語った。
 これは急がないと、川崎たちが何をするかわからないなと、僕は焦りを覚えた。きっと、今も菜子の行方を必死で探しているだろう。もし菜子が自首すると感づいたら、全力で妨害してくるに違いない。自分たちも芋づる式に逮捕されることになるのだから当然だ。
「本條さん、ご両親には協力してもらえるかな? 連絡先を知りたいんだ」
 早く準備をすすめようと、僕は菜子に尋ねた。菜子の顔が急に陰りを帯びた。
「そんなもの、必要ですか? 私、成人してるんですけど」
「わかってるよ。だけど協力してもらえるなら、してもらった方がいい。裁判にはいろいろと手続きが必要だし、お金もかかるんだ」
「この相談についての弁護士費用なら、美里先生に聞きました。それは大丈夫です。昨年亡くなった祖母が生前に、少しまとまったお金を、私名義の銀行口座に入れてくれたの。生前贈与の非課税分とか言ってたかな。孫にお金をあげるのは、税金がかからないからって」
「それだけじゃないんだよ。情状証人というんだけど、身内が監督者としてしっかりサポートしますと裁判で証言するのは、減刑してもらう一つの基準になるんだ。それに、被害者と示談するのにも、示談金が必要だ。三件分あるからね。かなりの金額になる。分割払いで交渉することもできるけど、ハードルがあがる。詐欺にあった被害者の気持ちを考えれば、一括払いで謝罪した方がいいのはわかるだろう? ご両親の協力を頂かないと、難しいはずだよ」
「うちの親は、協力なんてしない」
 菜子は投げやりな口調で言った。
「仲悪いんですよ。両親は仮面夫婦で、顔をあわせれば喧嘩ばかり。普通に話ができないのかと、聞いてるこっちが嫌になる。両親と私、三人家族ですけど、三人が別々の家に住んでいるんです。その方が衝突しなくてお互い楽なんです。だったら別れればいいのに、家族の体裁だけは崩さない。子供のためって正当化するけど、自分たちの世間体のためなの。最低でしょう?」
 家族のていを成しているのは戸籍上だけなんですと、菜子は吐き捨てるように言った。
「そうであっても、娘の非常事態なんだ。話してみればきっと…」
 そう口にしながら、しまった、失言だなと思った。菜子の顔に、暗雲が垂れ込めた。
「普通はそうですよね。でも、うちは違うんです。娘が何をしているか把握するために、娘と会話するんじゃなくて、こっそり監視カメラをつけるんです。興信所に尾行されたこともあったな。そういう親なんです。私、学校に馴染めなかったから、しょっちゅう休んでいたんですよ。それで、学校から連絡がはいって困ることがよくあったみたい。だから手を替え品を替え、娘を監視するようになったんです。小柳先生が連絡しなくたって、私がこんなトラブルになってることも、もう知っているかもしれないですよ。どこかに盗聴器がついてたりして」
 乾いた声で笑う菜子の真意を、どう解釈すればいいのか、僕は計りかねていた。依頼人の中には、絶対に家族に知られないように事をすすめたいと言う人がいる。本人は拒否しているものの、家族の方がいてもたってもいられなくて、協力を申し出てくる人もいる。逆に、弁護士として家族に連絡を入れたものの、関わりを断られることもある。

(つづく)