第一章 消えた依頼人【2】

【試し読み】新潮ミステリー大賞受賞作!『午前0時の身代金』

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イラスト 丹地陽子
イラスト 丹地陽子

「まずは、その対処をしないと。警察に、被害届は出されていますよね?」
「それは」
 と、依頼人は唇を硬くした。
「出してないんですか?」
「だって、それじゃあコウジを犯人だと疑っているみたいじゃないですか」
 さすがにそれはないと、僕は天を仰いだ。被害届を出さなければ、警察は動かない。北浦は野放しのまま、また別のターゲットを狙っているだろう。
 僕は現時点で、対応可能な選択肢を紙に書いて説明した。だけど、僕が提示した内容は、婚約者の北浦が詐欺師であることを前提としている。そこに納得がいっていない川澄さんは、話を聞きながら、両手の親指をくるくると交互に回転させ続けていた。
小柳こやなぎ先生、お話し中、失礼致します」
 パーティションの向こうから、事務員の塚原つかはらさんが顔を覗かせた。
「今、美里みさと先生から電話がありまして」
 と、メモを差し出す。僕はボスからの伝言に目を走らせた。
 ―もうすぐ美里先生のお知り合いが事務所にお見えになります。詐欺事件の相談のため、対応をお願いしたい、とのことです。 塚原
「わかりました」
 と、僕はうなずいた。塚原さんは依頼人の表情をチラリとうかがい、パーティションの向こうへと戻っていった。
 依頼人に視線を戻すと、まだ指をくるくると回していた。きっと直ぐには気持ちの整理がつかないのだろう。今日はこれ以上話しても、相談料がかさむだけかもしれない。
「川澄さん、ご趣味は何ですか?」
 突拍子もない僕の質問に、依頼人が目を数回またたいた。
「こういう時は、美味しい物を食べて、趣味に没頭するのが一番ですよ」
「はあ」
「ストレスが一番身体にきますから」
 僕が肩を上げ下げすると、そうですね、と依頼人が初めてわずかに口元を緩めた。
「気分転換をして、考えてみてください」
 風を受けなくなった風車が止まるように、依頼人の指がゆっくりと静止した。机の上に置いた僕の名刺を見つめている。
「どうするか、明日にでもご連絡いただけませんか?」
 川澄さんは小さくうなずき、僕の名刺をバッグの中にしまった。
「ハーバリウム作りなんです」
「え?」
「私の趣味です」
 尋ねておきながら意味がわからず、僕は頭をかいた。
「その、ハーバリウムというのはなんですか?」
「ガラスの瓶に、専用オイルとドライフラワーやプリザーブドフラワーを入れて作る、インテリアの置物です」
「すみません。そういうのは疎くて。説明頂いてもどんなものなのか、イメージがわかないな」
 川澄さんは素早く携帯を取り出すと、自分が作ったというハーバリウムの写真を見せた。オリーブオイルが入っていそうな細長い透明の瓶の中で、白いかすみ草とピンクや黄色の薔薇の花が、水の中を漂うように揺れている。この中の液体が、水ではなく専用のオイルらしい。ハイヒールの形をした瓶や、瑠璃色の明かりを灯した電球形の瓶、流れ星をイメージした星形のものまで、力作揃いだ。
「お店で売っても、売れそうですね」
 漏らした僕の感想に、川澄さんはパッと顔を輝かせ、
「じゃあ、今度持ってきてもいいですか?」
 と、身を乗りだした。
「おいくらですか?」
「まさか。売りつけたりしませんよ。作り過ぎて、家に飾るところがなくなっているんです。良かったら貰って頂けると」
 川澄さんが、事務所内をぐるりと見渡した。
「これなんか、どうですか? 弁護士事務所だから、オーソドックスな方がいいんじゃないかな」
 と、写真を見せる。声が勢いづいてきた。
「ありがとうございます。お任せします」
「わかりました。次回持ってきます」
 使命感に満ちた顔でそう言って、川澄さんが立ち上がった。僕も一緒に腰を上げる。
「では、明日ご連絡をお待ちしています」
 川澄さんは相好を崩し、
「少し楽になりました。ありがとうございました」
 と、腰を折った。踵を返した依頼人を、僕はエレベーターまで見送った。