第一章 消えた依頼人【6】

【試し読み】新潮ミステリー大賞受賞作!『午前0時の身代金』

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イラスト 丹地陽子
イラスト 丹地陽子

「どうしても連絡してほしくないという意味なのかな?」
 僕の問いに、菜子は固く唇を引き結んだ。手元の書類をじっと見つめ、考えこんでいる。僕は静かに、菜子の回答を待った。
「小柳先生、自首すれば、報道はされないんですよね?」
 難しい問題だと思った。振り込め詐欺のような特殊詐欺は、逮捕から二、三日後に実名報道されることが多い。一般市民への警戒の呼びかけや、詐欺グループへの警告の意味をこめて、各警察署長の判断でマスコミに情報提供される。自首の場合、通常は報道を避けられることが多いが、組織犯罪として逮捕者が増えれば、公になる可能性も高まるだろう。
「一般的に自首はよほどの有名人でもない限り報道されない場合が多いけど、組織犯罪は正直なところわからない。警察にかけあってみるつもりだけど」
 菜子は顔をあげて、視線を空に泳がせると、「有名人でもない限りか」とつぶやいた。
「小柳先生、少しだけ考える時間を下さい」
「そうか、わかった。だけど急いだ方がいい。被害者が被害届を出していれば、警察の方も捜査しているんだ。突然逮捕される可能性もあるんだよ。その前に自首しないと機会を失う。それに」
「早く被害者の方に謝りに行かないと、ですね」
「そうだ」
「わかってます。今夜一晩、考えさせてください」
 菜子は遠くを見つめるような目でそう言うと、小さく頭を下げた。

 白いケーキの箱を手に、ボスが事務所に戻ってきたのは、時計の針が午後八時を回った頃だった。事務所の床は音が反響しやすいのか、コツコツコツというヒールの音が、ボスの帰りを告げる。光沢のあるグレーのパンツスーツで現れたボスは、
「これ、お土産。頂きものだけど。バスクチーズケーキらしいわ」
 と、塚原さんに白い箱を差し出した。塚原さんが歓喜の声をあげた。
「チーズケーキ、嫌いじゃないですよね?」
 もう二時間、面談をしている僕と菜子を気遣ってくれたのだろう。塚原さんが菜子に声をかけた。
「大好きです」
 菜子が目尻を下げ、頬を膨らませた。
 塚原さんが淹れてくれた紅茶とともに、菜子がチーズケーキを食べている間、僕は席を外し、ボスの部屋へと向かった。
 ノックをして部屋に入ると、ボスが正面奥の窓際に置かれたデスクに向かい、資料に目を通していた。「どうぞ」と手招きされ、ボスのデスクに歩み寄る。デスクの上に置かれたパソコンには、スクリーンセーバーに設定されたハナミズキが、薄桃色の花びらのようなほうを満開に咲かせていた。二十代を米国で過ごし、ニューヨーク州の弁護士資格ももつボスは、春になるとサクラ以上にハナミズキを愛でる。
 パソコンの横には、ボスの愛読書「ガリア戦記」が置かれていた。古代ローマの政治家であり軍人であったユリウス・カエサルが、現在のスイス・フランス・ベルギー等にあたるガリアという地域を平定した戦いの記録だ。当時のガリア地域は、多くの部族が領地を取り合う勢力争いを繰り返しており、それを鎮圧したカエサルの戦いぶりは、奇跡の快進撃と称された。その八年もの道のりは決して順風満帆だったわけではなく、幾度にもわたる絶望的状況からの逆転劇が、カエサルの静謐な筆致で記されている。ボス曰く、「仕事の戦いに必要なことは全てここに書かれている」そうで、僕もボスに薦められ、事務所に入所して直ぐに読んだ。ボスは判断に迷った時、必ずこの本を読み返すそうだ。
 愛用のカランダッシュのペンを置き、ボスが僕に目を向けた。僕は菜子との面談内容を報告し、菜子の家庭事情により、自首への準備が中断していると告げた。
「ご両親の事情は、私も聞いている。そこは、菜子さんに決めてもらうしかないよね。委任契約書は?」
「まだです。これから説明して、記入してもらおうと思っていました」
 法律相談にきた依頼人の話を聞き、正式に弁護活動を請け負う際には、委任契約書を交わす。これにより、依頼人の正式な代理人として、示談交渉を行ったり、裁判に必要な書類を作成したりといった様々な弁護活動ができるのだ。
「それは明日まで待ちなさい。親の協力いかんによって、方向性も変わってくるでしょう。今の状況で、安易に責任を引き受けるべきじゃない」
 ボスらしい回答だった。ボスが仕事に私情を挟むのを見たことがない。「ボスの知り合いだから対応をお願いしたい」との伝言メモを目にした時、自分を頼ってきた女子学生に少しは肩入れしているのかと思ったが、どうやらそんなことはないようだ。僕は苦笑をうかべながら、「わかりました」と応えた。ボスの指示通り委任契約書を明日に持ち越したところで、さほど差し障りはない気がした。
「それより、菜子さんをホテルまで送ってあげてくれる? 白金台のシェラトン都ホテルに泊まっているらしいから。川崎たちに追われている話は聞いた?」
「はい。一人にするのは心配だし、どうしようかと思っていました」
「さすがにホテル内にいれば大丈夫だろうから。そこまではね」
「わかりました」
「その前に、何か食べない? 昼を食べ損なってエネルギー切れなの。菜子さんも、きっとまともな物を食べてないはずよ。この二日、川崎たちに怯えて、外に出られなかったみたいだから」
「わかりました。菜子さんと塚原さんに、声をかけてみます」
「いつもの店ね」
 ボスの言ういつもの店とは、事務所から徒歩三分のところにあるイタリア料理店「アルバ」だ。事務所の戸締りを終えると、僕は菜子と塚原さんとともに、アルバに向かった。雑居ビルの三階にあり、七割のお客がリピーターという小さなアットホームな店である。ボスは会食でもない限り、自宅のダイニングキッチンのようにこの店に足を運ぶ。カウンターの左奥の席が、ボスの指定席だ。
 店のドアを開けると、三つしかないテーブル席の一つに、予約席とプレートが置かれていた。他の二つの席は、友人らしき女性三人組と、仕事の同僚らしき男女四人組で埋まっている。打ちっぱなしのコンクリートの壁と大小のスポットライトが、狭い店内を広々とした洒落た空間に見せていた。カウンターの中から顔馴染みのマスターが、「いらっしゃい」と声をかけてくれた。先に来て指定席に座っていたボスが、ワイングラスとチーズの載った小皿を手に、予約席に移動してきた。