第一章 消えた依頼人【1】

【試し読み】新潮ミステリー大賞受賞作!『午前0時の身代金』

更新

 選考委員、満場一致の受賞作!

イラスト 丹地陽子
イラスト 丹地陽子


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道尾秀介氏
「目新しい設定に引きつけられ、物語の起伏に興奮した。作家に必要なのは大嘘を信じさせる才能だと、あらためて思う」
貴志祐介氏
「いっさい停滞することなく、最後まで一気読みさせてくれた」
湊かなえ氏
「読後、『これが受賞するな』と確信しました」
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 第8回新潮ミステリー大賞(選考委員:貴志祐介さん、道尾秀介さん、湊かなえさん)の大賞受賞作がついに刊行! 発売を記念し、一章分をまるごと試し読み公開します。新米弁護士の小柳大樹は、事務所のボス・美里先生の紹介で訪れた女子学生・本條菜子と面談。詐欺事件にかかわってしまったという彼女の相談に乗るも、その後、事態は思わぬ方向へ…。選考委員が揃って受賞を確信した圧巻のミステリ・エンタテインメントをご堪能ください。

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第一章 消えた依頼人

「早く結婚したいねって、毎晩言ってくれていたんです。『おやすみなさい』につながる枕詞みたいに」
 また話が振り出しに戻ってしまった。ここから、どれだけ二人の仲が親密であったか、どれだけ彼が優しかったか、過去の日記を聞かされるような時間が続く。僕は小さく溜息をついた。
「コウジは温泉が大好きだったんです。特に青森の青荷あおに温泉が」
 青荷温泉なら行ったことがある。針葉樹の間を流れる一本の川のような山道を登っていった先の渓谷に、ぽつんと現れるランプの宿。電気もなく、携帯の電波も届かない。夜のとばりが下りると、橙色のランプの灯がぼんやりと浮かび上がる。魚を焼く囲炉裏いろりの音や、宿の側を流れる川のせせらぎをBGMに、現世のしがらみとは無縁の世界を求めてやって来た宿泊客たちが和やかに談笑する。そこには、携帯を片手に情報を検索する人も、旅先の様子をSNSで実況中継する人も、不審人物を警察に通報する人もいない。詐欺師もさぞかし安堵して、ぐっすり眠れたことだろう。
「青荷温泉に行けば、またコウジに会える気がするんですけど」
 窓から射し込む残光が、目の前の依頼人・川澄かわすみ涼子りょうこの揺れる瞳を照らした。信じていた婚約者が詐欺師であったことを、まだ完全には受け止められないのだろう。先程から、相談ではなく思い出話に、話の内容が変わってしまっている。
 僕は、川澄涼子の口述記録に視線を落とした。
 遡ること三日前、四月五日の夜、都内の依頼人の部屋にて、熱烈な情事の余韻に浸るまどろみの中で、婚約者である北浦きたうら孝司こうじが、川澄涼子の頭を撫でながら言った。
「最近、なんでもパスワード設定しないといけないからさ、全部覚えられないよな。涼子はどうしてる?」
 愛猫マロンの誕生日に統一していると、依頼人は何の疑いもなく口にした。翌朝、目を覚ますと、隣に寝ていたはずの婚約者の姿がない。部屋の中に特に変わりはなく、直ぐにかけた北浦の携帯は圏外だったようだ。どうしたんだろうと気になりながら、勤務先である不動産会社にとりあえず出社した。午前中、何度も北浦に連絡を入れたが、つながらない。依頼人の財布から、現金、キャッシュカード、クレジットカードの全てがごっそり消えていることに気付いたのは、食べ終えたランチの支払いをしようとした時だった。何が何だかわからず、パニックに陥った依頼人は、一緒にランチを食べた同僚の助言により午後半休を取り、会社から最も近い赤坂警察署に向かった。
 道すがら、昨夜の記憶を辿りながら必死に考えた結果、思い当たった筋書きはこうだ。
 きっと寝ている間に泥棒が入ったんだ。蒸し暑くて窓を少し開けて寝たし、そういえば深夜、何か物音がしていた。私は眠くて気に留めなかったけど、コウジは気が付いて、犯人を追いかけてくれたんだ。それで揉み合いになった。連絡が取れないのは、連絡を取れる状況じゃないから? 相手は複数人だったのかもしれない。私って最低。なんで今まで気付かなかったんだろう。あの時、自分も起きればよかった。コウジの身に取り返しのつかないことが起こっていたら、どうしよう。お願いコウジ、どうか無事でいて―。
 依頼人は息を切らしながら、赤坂警察署に駆け込んだ。一刻を争う事態だ。対応に出てきた警察官に、依頼人は空になった財布を見せ、声を荒らげて自分の推測を訴えた。だが、丸顔の中年の警察官は、淡々とした口調でこう言ったという。
「それは、彼氏さんが持っていったんじゃないですか?」
「そんな人じゃありません。彼の身に何かあったらどうするんですか」
 早く捜索してくれと目を吊り上げてまくし立て、彼と自分は婚約しているのだと訴える依頼人を、警察官はどうやら、お決まりの応答でかわしたようだ。