「子実体」の生殖戦略

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あるいは修羅の十億年

『あるいは修羅の十億年』

著者
古川 日出男 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087716573
発売日
2016/03/04
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「子実体」の生殖戦略

[レビュアー] 松浦寿輝(作家)

 何やら不穏な気配がある。「古川日出男」がひっきりなしに胞子を飛ばし、違法な繁殖を続けているようなのだ。ニッポンの東北地方発とおぼしいその胞子の飛散範囲は、アリューシャン列島からエジプトのカイロ、さらには馬の放牧で名高い南仏のカマルグ地方など、意想外の世界各地に及ぶ。しかもそれはこの惑星の地理上にはびこっているだけではない。「古川日出男」の菌糸はウィザードリィから宮沢賢治へと感染し、ひいては何と、もったいなくもかたじけなくも、わが国の物語文学の始源をなすあの源氏物語の雅文の襞々にまで喰い入り、喰い破りさえして、いたるところに「古川日出男」を再生産しつつある。この由々しい事態を看過していてよいものか。

 ここでカギ括弧付きで「古川日出男」と呼ぶものは、作家古川日出男の「本体」ではない。「……茸とはなんなの?」「本体ではないものです」――これは本書『あるいは修羅の十億年』の三分の二ほどのところで交わされる問答だ。菌類の「本体」とはあくまで地中に潜む菌糸の方であり、地上に生え出た茸は「子実体(しじったい)」と呼ばれるものなのだという。それで言うなら、「古川日出男」とは古川日出男の「子実体」、その生殖体にほかならない。多産このうえもないこの生殖細胞が、あまたの胞子を発芽させて八方に撒き散らす。胞子は風に運ばれ、どれほど遠くまで飛んでゆくかもわからない。茸としての物語、物語としての茸が、こうして獰猛きわまる勢いで世界中に繁茂してゆく。

 しかし、茸とはそもそも何か。それはまず、「奇蹟的な生物」「人類を救済する善なるもの」と言われる。本書の舞台をなす西暦二〇二六年の並行世界では、地震と津波によって百二十キロ離れた二ヶ所の原子力発電所に重大事故が起きて以来、十五年が経過している。汚染された広大な立ち入り禁止区域を、外の人々は「島」と呼んで恐怖し忌避するが、それを「森」と呼んでそこに進んで棲みつこうとする人々もいる。鳥も獣も逃げ出してしまったこの「森」に、イヌセンボンダケ、ヒラタケ、クリタケ、ホコリタケ等々が群生しはじめる。あたかも放射性物質を吸収し、世界を浄化しようとするかのように。「茸たちは菌糸を生け贄に捧げたのです」。ところが、他方、この茸たちを選別し進化させ、兵器として利用する者たちが現われる。放射性物質を内部に封じこめたその特殊な菌類は、胞子とともに致命的な毒素を広範囲に放出する。「その任務とは大量殺戮です」。

 良きものにして悪しきもの、自己犠牲する救済者にして禍々しい殺戮者という両価性の相貌のもと、世界の全域へと滅多やたらに広がってゆく――それが茸なのだ。「古川日出男」による「古川日出男」の再生産の驚くべき勢いと広がりを素直に言祝ぐ気になれず、そこに不穏な気配を察知せずにいられないゆえんである。どうも、少々ヤバイのではないか。だが恐らく、この不穏さ、このヤバさにこそ物語作者の栄光を見るべきなのだ。

 古川日出男の紡ぎ出す物語の複数的な離散性に対して、わたしは長らく懐疑的だった。あの小説もこの小説も、もの狂おしいまでの迫力は圧倒的だが、あまりと言えばあまりにとりとめがない。当たるを幸い、闇雲に書き倒してゆくような語りのドライヴ感に眩暈しながらも、そこに首尾一貫した構成なり構造なりが触知できないことに苛立たざるをえない。一つの物語は幾つもの小物語に分岐し、小物語一つ一つからまた幾つも微小な物語断片が飛び出し、それらすべてが根茎状に絡み合い、本筋と脇筋の区別もないまま、饒舌きわまる作者の筆はあっちこっちに自在に飛び、途方もない勢いでの全面展開となった挙げ句の果て、何の収拾もつかずにぷっつりと途切れて終る。これはいったい何なのか。

 本書もまた、要領の良い要約を受けつけがたい混沌とした小説だ。東京で催されるアートプロジェクトのために来日したメキシコ人美術家ガブリエル・メンドーサ・V、彼に協力し原始の東京をめぐる架空の歴史を創作する「ロボット少女」ウラン、「森」からやって来てウランに出会い「東京ネオシティ競馬」のジョッキーになる少年喜多村ヤソウ、ヤソウの従姉で「森」をめぐって「きのこのくに」という物語を執筆する喜多村サイコ、「森」で牧場を経営する元暴力団員の通称「カウボーイ」こと堀内牧夫、その他、その他……。彼ら一人一人が担う物語たちは、統合も綜合も収束も知らないまま、離散的な全面展開に突入し、そのさなか、いきなり最終ページに逢着するわたしたちは、最終行の後の余白を見つめて呆気にとられるほかはない。カタルシスをもたらす大団円を期待していた読者――などいるはずがないか――は、肩すかしを喰らって啞然とするだろう。

 しかし、「子実体」である「古川日出男」がむやみに胞子を飛散させ、ひたすら「古川日出男」を再生産しようとしつづけているのだから、それでよいのだ。わたしは本書『あるいは修羅の十億年』を読み、改めてそう腑に落ちた。どんどん加速し強度を増してゆく離散的なテクストのグルーヴィな疾走感に茫然自失することだけが、古川日出男を読む正しいやりかたである。構成が破綻しているのでは、いやそもそも構成が無いのではなどと難癖をつけるのは、大きなお世話というものだ。無数の胞子たちの無秩序にして無際限な飛散に、構成も構造もあるはずがない。

 物語は語られるのではなく、撒き散らされる。菌類の生殖には有性、無性の両様があるようだが、ここでの茸=物語は過激な独身者だ。古川日出男の文章の離散的な増殖性は、雌雄協力し合っての予定調和的な再生産とは無縁である。それは単独で出芽し分裂し分岐し、ただひたすらとめどなく増えてゆく。この独身者的な発語の繁茂のさまは、全盛期――『真夜中のマリア』『てろてろ』の頃――の野坂昭如の文章に漲っていた、尽きることのない衝迫と欲動の持続をふと思わせる。しかし、野坂の間断のない言葉の流れが情緒纏綿たる井原西鶴調のたおやめぶりを湛えていたのに対し、古川日出男の文章のグルーヴ感はいかなる情緒からも切れており、高まろうとする情念を絶えずアイロニーと即物性とで冷やしつつ進行する。その音楽性の基盤にあるのはむろんロックンロールだろうが、そこにはどこか、アルバン・ベルクの無機的な無調音楽のはしばしから滲み出る、抒情的な甘美が香っているようでもある。

「古川日出男」が飛ばしつづける無数の胞子のほんの一つがわたしたちの心の痩せた土壌にぽつんと落ち、そこにまた新たな菌糸を伸ばしはじめる。その恩寵によって土壌は浄化され肥沃化されてゆくのか、それとも放出された毒性物質でなおいっそう汚染されてゆくのか。あるいは奇怪なことに、その両方が同時に起こるのか。いずれにせよこの両価性に漲る不穏な気配を身に引き受けることこそ、物語を読むという行為にほかなるまい。

新潮社 新潮
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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