海との関係を結びなおす

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海と山のピアノ

『海と山のピアノ』

著者
いしい しんじ [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104363049
発売日
2016/06/30
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

海との関係を結びなおす

[レビュアー] 木村朗子

 九篇の作品が収められた短編集である。作品の多くは、東日本大震災後に書かれているが、その発端には『それでも三月は、また』(講談社)に寄せた作品があったのではなかろうか。震災から一年後の二〇一二年二月に日本語版と英語版が世界同時刊行された3・11のメモリアル作品集にいしいは「ルル」を発表している。「ルル」には津波の被害が描かれていたし、他の作品にも津波のイメージが揺曳する。とはいえ三崎港のマグロ漁船の遭難を描いた「野島沖」は二〇一〇年の作品であって、これら作品群の水のイメージは震災によって引き寄せられたというよりも、一時は三浦半島の三崎に住まい、海辺に親しんだ作家の内なる主題としてあったものとみるべきだろう。

 いしい作品の、読者の脳内に生成したイメージを絶えず裏切っていくような作風は、童話的幻想譚やマジックリアリズムといったくくりではしっくりこない独特の捩り方で反対語に一足飛びに転じるようなことばの力によってもたらされているのである。たとえば「あたらしい熊」において主人公は、画用紙を真っ赤にぬりたくって、「真っ黒い熊だよ!」と主張したりする。あるいは「浅瀬にて」では、浜に流れ着いた漂着物を貼り付けた海の塔のそばに人間のかたちをした「穴」がやってくる。それは『不思議の国のアリス』がそうであったように、あり得ないものの、ことばによる具現なのだった。様々なズラしの手立てがそこここにしかけられていて、やさしい文体で書かれていながらまるで油断ならないのである。

「ルル」に津波が描かれると言っても、これもなかなかのくせものである。舞台は児童施設であり、ここに暮らす子どもたちは皆トラウマを抱えていて夜毎悪夢にうなされている。それを「銀の湖面のように輝き」を放つ天井からおりてきた「透明な女の人たち」と犬のルルが懸命に癒す。子どもたちの眠りはまるで水底に沈んでいるかのようだ。「ぽ、ぽぽ、と水泡のような」息をもらしさえする。水のイメージに導かれて読者は子どもたちが津波で親を亡くし、この施設に暮らすことになったものと思い込みそうになる。しかし彼らは津波の被災者ではない。それ以前からこの施設に暮らし、被害にあったのは、その日、誕生日を迎える子どものために選り抜きの食材を求めて港にでかけ、それきり行方不明となった「食堂のおばさん」なのだった。物語の前半部が犬のルルの視点で語られるのに、十二年後に開かれた同窓会で、その犬は子どもたちがつくりだした想像上の犬で実在しないことが明らかにされたりもする。前半にルルが経験した津波の記憶はいったいどこへ結ばれるのか。単線的理解は絶えず覆されていく。

「ルル」とほぼ同時期に発表された「あたらしい熊」は震災をそのままに描いたわけではないものの震災を読み込むことができるようになっている作品である。震災後文学は川上弘美が、主人公が熊と散歩をするデビュー作「神様」を震災後に置き換えて書き直した「神様 2011」にはじまり、その後、それに共鳴した熊をめぐる物語が続々と現れた。「あたらしい熊」は、なぜ震災後文学が熊を描いたかという疑問に応えてくれるものとなっている。いしい作品によれば、熊によって取り戻そうとしているものは喪われた「ふるさとの土地」である。ただしその土地は原発事故によって汚染されているわけではない。「じわじわとしみこんでいく、数字にはあらわれない線量の目にみえない光。地殻の揺れ、大津波」と描写されているのは、米軍基地の軍事演習によって損なわれた青森の地である。たしかに戦後日本にはそこいら中に虫食い穴のように立入禁止区域が存在している。その一つに米軍基地がある。ここでは基地こそが汚染の元凶とされ、青森沿岸部から採取したその損なわれた土を「植物や微生物、バクテリアの力を借りて蘇らせてもとの場所に戻」す活動をしている「あたらしい熊」なるグループが登場する。陸路からみれば三崎と青森は遠く隔たっているが、海を行く航路では、「三崎、銚子、小名浜、石巻、気仙沼、宮古、そして八戸」はつながっていて、一帯の地域とみることができる。あえて言挙げされないが、その一帯には震災の津波の被災地や事故を起こした福島第一原子力発電所がある。基地のある三沢、天ケ森射爆場とともに六ヶ所村の名があげられており、原発と放射能の問題が浮き彫りになるようにもなっている。

 表題作「海と山のピアノ」では、山の津波を描く。あるとき、三人の女性が行方不明となり山に穿たれた穴で発見された。女たちは一様に全身が海水で濡れていて、津波にのまれて亡くなったのだった。物語の最終場面では、海がまるで山火事のように真っ赤に燃える。どちらもいしいしんじ流のひっくり返しである。海の氾濫を鎮めるのは、その村に流れ着いたグランドピアノのなかに眠っていた少女である。うつろ舟の神話的イメージが、津波のイメージに重ね合わされる。あの津波ならば、グランドピアノが流れ出したり、どこかへ流れ着いたりする神話が生まれても少しもおかしくない。それ以上に、海からやってくる音は弦楽器でなければならなかっただろう。水の女神である弁財天は琵琶をかかえているのだし、四国には海から琴が流れ着く神話も伝わる。荒れ狂い燃え立つ海を収めた少女はピアノとともに海に消えていった。その代わり、大潮にのって白と黒の大木が流れ着く。それらを並べると巨大なピアノの鍵盤になるのだった。

 本書は震災の物語というよりは、現代に語り直された海の神話というのがふさわしい。しかもそれは日本に固有のものですらない。「海賊のうた」は世界をまたにかける海賊船の船長の物語だし、「川の棺」はガーナのアクラを舞台に、死者送りの儀礼を語る物語となっている。とくに「川の棺」は、津波で亡くなった多くの死者と海から戻らなかった行方不明者を想起させながら、あえて海ではなく川の儀礼として提示してみせることで、具体的な出来事に対する直接の慰撫を周到に避け、神話的昇華の可能性を開いた。神話とは、自然界と人間が祭といった不可解な儀礼によって幾度も結び直されねばならない関係であり、その結び目をかたちづくるのが物語なのである。その意味で本書は海との関係を結びなおすためのいま語りの神話集なのである。

新潮社 新潮
2016年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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