カカノムモノ

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   三、

 それは、普段と何の変わりもない春の日だった。
 三時間目の途中で、教頭先生が慌てた様子で教室にやってきて、颯太を廊下に呼び出して告げた。
 お母さんが倒れたから、すぐに病院に…!
 その後副担任に付き添われて病院に向かうと、無機質な病室のベッドの傍で、秀史が泣き崩れていた。ベッドに寝かされていた絢子は、ただ眠っているだけのように、颯太には見えた。けれどもう絢子は、母は、起き上がることはないという。
 なんで? どうして?
 疑問符を口にすることもできず、颯太は呆然とその場に立っていることしかできなかった。秀史の、世界を拒絶するようなその背中が、すべてを物語っていた。
 それから数日間のことは、よく覚えていない。秀史の母が来て、倫の面倒を見てくれていた覚えはあるが、颯太は良くも悪くも放っておかれたのだと思う。秀史は通夜や葬儀の慣れない手続きや、各方面への挨拶で、こちらを気遣っている余裕もなかったのだろう。
 若いのに、脳出血だったんだって?
 まだお子さんだって小さいのに、かわいそうに…。
 明るくていい人だったのにね。
 小さな葬儀会場には、近所の人や、生前母と親しかったバイト先の仲間たちが駆け付けてくれた。
 お父さんは再婚相手なんでしょう?
 上の子とは血が繋がってないって…。
 颯太くんどうなるのかしら。
 口さがない人々の、興味本位の会話が、颯太の耳に届いていた。その時ようやく、母がいなくなった自分に、秀史たちと暮らす資格がないようだということに気が付いた。
 ―いや、本当は、もっと以前からわかっていたのだ。
 秀史に愛情をこめて「うちの息子が」と呼ばれても、なぜか違和感を覚えてしまう自分に、ずっと気付かないふりをしてきた。
 母が小さな骨壺に収まって自宅に戻ってきた日、秀史は颯太と倫を抱きしめて、「俺たちはずっと家族だよ」と言ってくれた。その言葉にきっと嘘はないのに、素直に頷けない自分がいる。
 しかし結局他に、行き場所もない。
 母の残り香に縋って、颯太はここで生きていくしかなかったのだ。

   ◆

 その日いつも通りランドセルを背負って家を出た颯太は、学校には向かわず、川沿いの道を辿って、いつか母と見た蓮華畑を探した。記憶を頼りに歩いて、それらしき場所は見つけたものの、季節が早いこともあり、花を咲かせた蓮華草はまだ一本も見つけられなかった。雑草が覆う土地の片隅に、白い蒲公英たんぽぽが一輪、密やかに花弁を開いているだけだった。
 それから颯太は、母と暮らしたアパートを見に行き、よく通ったスーパーへの道を辿り、自分が通っていた保育園を遠目に見て、母と手を繋いで渡った横断歩道を一人で歩いた。昼になっても不思議と腹は減らず、今更学校にも家にも戻る気になれず、居場所を転々と変えながら、スマートホンで母の声を飽きることなく再生し、その音の中に埋もれて押し殺すように息をした。
 やがて陽が落ち、人々が帰路に就く中で、歩き疲れた颯太は河川敷のベンチで凍えた膝を抱いて温めた。学校に行っていないことは、すでに秀史の耳に入っているだろう。昨日のように、何事もなかったように、当たり障りのない言い訳をすればいいと思う一方で、何を口にしたらいいか全く思い浮かばなかった。
 もう一度母の声を再生しようとした颯太は、スマートホンが反応しないことに気付き、充電が切れてしまったとようやく思い至った。もともと電池の減り方は早くなっていたし、今日は一日中音声メモを再生していたので、当然の結果だろう。しかしいつでも聞けると思っていたものが急に聞けないとなると、にわかに心がざわつき、落ち着かなくなる。
 今日はたまたま充電切れだが、これから先、もしもこのスマートホンが壊れてしまったら?
 その時はもう永遠に、母と繋がる術がなくなってしまう。
「よう」
 闇のように横たわる水面へ、ぼんやりと目を向けていた颯太に、誰かが呼びかけた。
「何してんだ、こんなとこで」
「春永…」
 いつもの白いダウンジャケットを羽織った春永は、颯太の座るベンチまでやってくると、ポケットから缶のカフェオレを取り出した。
「間違えて買っちまったんだ。すまんがもらってくれるか?」
 颯太が受け取ると、冷え切った手に缶の温かさが染み込んだ。
…甘いの、別に苦手じゃないだろ」
「そうなんだが、今日はブラックの気分でなあ」
 春永は反対側のポケットから、ブラックの缶コーヒーを取り出して、プルタブを引き開ける。颯太もカフェオレの缶を開けて、ひとくち口に含んだ。温かさと甘さが、喉を通って腹の中に落ちていく。
「昨日の様子がちょっと気になってな。さっき家を訪ねようとしたら、颯太がいないってんで、探しまわってるお父さんと鉢合わせたぞ。学校にも行かなかったんだって?」
 不思議な人だな、と颯太は改めて春永を眺める。昨日のバス停でのことと言い、自分の行き場所など知らないはずなのに、なぜだかふらりと目の前に現れる。そして隣にするりと滑り込むのだ。まるで気まぐれな野良猫のように。
…春永はさ、なんでお父さんとお兄さんと一緒に暮らさないの?」
 カフェオレで温まった息が、微かに白く煙る。
「唐突な質問だな」
「小さい頃は一緒に暮らしてた?」
「生憎親父とは一度も一緒に暮らしたことがない。兄とはあの家で、数年一緒に暮らしてたんだけどな」
 街明かりで今にも消えそうな星の光を見上げて、春永は口にする。
「所詮あっちの家系とは、住む世界が違ったんだよ」
「住む世界が?」
「ああ。だが、それは俺の話だ。颯太が真に受ける必要はないぞ」
 釘をさすように言って、春永はコーヒーを飲んだ。
「家族なんてのは、百あれば百、形が違うもんだ。同じものなんてない。家族という線引きすら、曖昧なもんだからな」
 その言葉を聞きながら、颯太は白く粉を吹く膝に目を落とす。そうは言われても、颯太は秀史と倫がいる、あの家族の形しか知らないのだ。母がいることで、どうにか均衡を保てていた、あの家族しか。
…帰りたくないか?」
 春永に問われて、颯太は言葉を探した。
…たぶん、そういうわけじゃない」
 胸の中の形にならないもやの中から、手探りで答えを拾い上げる。
「帰っていいのかどうか、わからない」
「いいに決まってんだろ。あんなに心配されてんのに」
「うん、そう。秀史は、たぶんそう言う」
「お父さんが信用できねぇってことか?」
 颯太は無意識に首を傾げた。
 それよりももっと、自分を引き留めているものがある気がするのだ。
…ずっと前から、秀史に息子だって言われると、変な気分になるんだ。嫌だってわけじゃなくて、慣れないってことでもなくて…」
 それは見慣れたいつもの風景が少し歪んで見えるような、慣れ親しんだ味にひと匙の苦みが混じるような、そんなちょっとした違和感。
 気のせいだとやり過ごしてみても、忘れたころにまたそれは顔を出す。どこまでも追いかけて来る影のように。
…秀史と、家族になれると思ったし、親子になれると思ってた。でも、結局…」
 笑顔で食卓を囲んで。
 一緒に風呂に入って、同じ部屋で眠って。
 それでも自分は、彼を父親だと認めていなかったのだろうか。
…颯太は、お母さんのことをあやこって呼んでたよな?」
 あの日の記憶を辿るように、春永が尋ねた。
「俺はそれを、最上級の親しみを込めた呼び方だと思ってたんだ。だから颯太が、秀史さんを秀史って呼んでるのを聞いて、ちょっと安心してた。母親の再婚相手を、お父さんて呼べないなんてベタな話だが、颯太は大丈夫なんだろうって勝手に思ってたよ」
 春永にそう言われて、颯太は手の中の缶に目を落とす。
…あやこのことをあやこって呼ぶのと、秀史のことを秀史って呼ぶのは違うんだ。たぶん」
 彼と初めて会った日のことを、颯太はよく覚えている。
 小綺麗なファミリーレストランのボックス席で、母の横に座った青年は、はにかみながら「初めまして。豊岡秀史です。よろしくね」と自己紹介した。豊岡くん、と呼んでいた母が、そのうち秀史と呼ぶようになって、颯太も真似をして秀史と呼ぶようになった。休みの日に一緒に出掛けて、家で一緒に夕食を食べて、一年経つ頃には、一緒に暮らすことになった。
 そうだ、自分の中では、あの頃から何も変わっていない。
 書類上でどうなろうと、あの頃の『秀史』から何も変わっていないのだ。
 それなのに、周囲の景色だけが目まぐるしく移り変わって、颯太を置き去りにする。
「秀史は…俺を家族だって言ってくれるのに、俺はあの頃から変われないんだ…。それってさあ、卑怯じゃん。ずるいじゃん。秀史にばっかり無理させて、俺は―」
 颯太はそこで言葉を切った。それ以上声にすると、泣いてしまいそうだった。
 血のつながらない息子を抱えて、秀史がどれだけ苦労しているか、努力しているかを颯太は知っている。大事にされている自覚はあるのに、その想いに未だ全力で応えられない。
 涙を堪え、せわしなく瞬きをする颯太に気づかないふりをして、春永はもう一度くすんだ空を見上げた。
…俺は、颯太が卑怯だともずるいとも思わんがなぁ」
 缶コーヒーを持ち換えた春永の手が、颯太の頭を優しく包んだ。
「そんなに聞き分けよく大人にならなくていいんじゃないか? …まあ颯太だって、なりたくてなってるわけじゃないんだろうがな」
 颯太は洟をすすって、カフェオレを飲んだ。やや冷めた甘さが、少しずつ感情をなだめていく。
 大人になるということが、颯太にはよくわからない。
 今までやって来た選択も、思考も、行動も、すべて必要なことだった。
 母がいなくなった世界で、必要なことだっただけだ。
「颯太!」
 土手の方から名を呼ばれ、颯太が振り返った時にはもう、秀史が河川敷に続く階段を駆け下りてくるところだった。自分を見つけた時に、おそらく春永が連絡していたのだろう。
 颯太は思わず立ち上がったが、息を切らした秀史が目の前に立っても、口にするべき言葉を見つけられずにいた。
…倫は?」
 結局、それだけを尋ねた。すでにいつもの退園の時間は過ぎている。
「まだ保育園だよ。園長先生に事情を話して、預かってもらってる」
 秀史は呼吸を整えながら、颯太と目線を合わせて膝を折る。
「颯太が学校に来てないっていう連絡を受けて、いろいろなところに電話したんだ。そしたら母親から、昨日颯太と会ったっていう話を聞いた…」
 颯太の肩を掴んで、秀史は懺悔するように口にした。