第二話 蓮華【後編】

いつか春永に

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前回のあらすじ

他人には複雑に見える家庭でも、それが自分にとっては普通だ。飄々とした『常春』の主人・春永との出会いは颯太に前向きさをもたらすが、偶然出会った亡き母の夫・秀史の母の言葉が毒のように颯太の心を蝕んでいく。

イラスト tacocashi
イラスト tacocashi

   ◆

 ―えーと、人参と玉ねぎとー
 ―玉ねぎはまだあるよ。
 ―え、ほんと? じゃああとなんだっけ。
 ―お肉。
 ―そうだ、お肉。それくらいかな。
 ―ヨーグルトは?
 ―あ、それも!

 秀史の母と別れ、行く当てもないまま街を歩き回った颯太は、その間ずっとスマートホンを耳に当て、母の声を聞いていた。繰り返される母の声は当然ながらいつも同じで、颯太を慰めも励ましもしないが、電話越しに未だ母がいるようなその状況が、颯太を次第に落ち着かせた。そうしてどうにか平静を取り戻した颯太が、再びバスに乗って自宅近くへ戻ってきた頃、すでに冬の空には夕暮れの裳裾もすそが引かれていた。
 同じバス停でバスを降りた人々が、それぞれの目的地へ歩いていく中、颯太は最後までその場に佇み、長いこと暮れていく空を見上げていた。今から学童に行っても、秀史の迎えには間に合わない。サボったことは、遅かれ早かればれてしまうだろう。しかし、一体どこまでを正直に彼に話せばいいだろうか。
 秀史の母に言われた、重荷に思っている、という言葉が、割れたガラスのように胸に刺さったまま、少しずつ心臓の方へ沈んでいく。母のいなくなった三人暮らしの家で、颯太だけが秀史と血の繋がりがなく、颯太だけが他人だ。自分の子ではない人間を養うために、秀史は毎日働いている。その事実が、遅効性の毒のようにじわじわと颯太を蝕んでいた。
 養子縁組をして苗字を揃えようと言ってくれた言葉は、きっと嘘ではない。
 けれどそれを、彼に言わせてしまっていたのだとしたら。
 そうするように、知らないうちに彼に強いていたのだとしたら。
「お、颯太じゃん」
 颯太の沈みそうになる思考を掬い上げるように、聞き覚えのある声がした。
…春永」
 白のダウンジャケットのポケットに、片手を突っ込んだ彼が人懐っこく笑う。
「何やってんだ? 学校の帰りか?」
「いや…」
 スーパーの袋をぶら下げた春永を前に、颯太は雪崩のように押し寄せる感情が、体を食い破って這い出してしまいそうになるのを自覚する。彼ならばわかってくれるだろうかと、喉元で言葉になろうとしていた。
…春永、あのさ」
「ん?」
 屈託のない彼の顔を見上げて、颯太はすんでのところで声を詰まらせる。
 人のいい彼を巻き込むのは、違う気がした。
…スマホ、貸して。秀史に電話したいから」
 結局颯太はそう言って、春永のスマートホンから秀史へと一報を入れた。学童をサボったので迎えに来なくていいことと、バスに乗りたくなって繁華街に行ったことを正直に話し、代わりに秀史の母と会ったことは口をつぐんだ。案の定叱られはしたが、最大の懸念には触れずにすんだ。しかし遅かれ早かれ、秀史の母から今日のことは伝わってしまうだろう。
「なんかあったか?」
 スマートホンをダウンジャケットのポケットに押し込みながら、春永が訝し気に颯太の顔を覗き込む。
「聞いてた通りだよ。せめて秀史が迎えに来る前に帰ってくるべきだったな」
 いつもの調子を取り戻して、颯太は自宅に向かって歩き始める。その隣を、当然のように春永もついて来る。
「繁華街に行く理由が、なんかあったんじゃないのか?」
「別に。バスに乗りたかっただけだよ」
「大人に言えないことに巻き込まれたりもしてないか?」
「ああ、それはない。ないない」
 苦笑して返答しながら、春永のことをいい奴だなと、颯太は思う。春永はいい奴だ。だからやっぱり、すがらなくてよかった。縋ってしまえばきっと、彼は突き放せないだろうから。
 春永は自分の家を通り過ぎても、マンションまで送ると言って、颯太と並んで歩いた。夕闇の迫る空は、紫とも薄紅ともつかない不思議な色をしていた。その色彩に、颯太はふとあの花畑の記憶を手繰る。
…春永、蓮華草って何月ごろ咲くんだっけ?」
 唐突な問いに、春永はやや戸惑うように瞬きした。
「蓮華草か…。この辺だと、三月の下旬くらいからじゃないか?」
「三月…来月かぁ」
 吐き出した息が、微かに白く曇る。来月の下旬になれば、あの川沿いの場所に、母と見た時のような満開の蓮華草が見られるだろうか。

「颯太!」
 自宅マンションの近くまで戻ってくると、ちょうど倫の手を引いた秀史と鉢合わせた。スーツ姿のままであるところを見ると、まだ家には帰っていないようだった。
「よかった、迎えに行こうと思ってたんだ。…こちらは?」
 秀史が、訝し気に春永へ目を向ける。
「春永だよ。スマホ貸してくれた人。たまたまバス停の前で会ったんだ。前にも家で雨宿りさせてもらった」
「家で?」
 初めて聞く話に、秀史が眉間の皺を深くする。
「ああいや、家っつっても、玄関先を貸したくらいで」
 颯太の言葉に、春永が慌てて補足した。
「お父さんが心配するようなことは何もないですし、俺も潔白です」
 春永がおどけて両手を上げてみせると、ようやく秀史は小さく息を吐いて、颯太に目を向ける。
「お世話になったんなら、ちゃんと言ってくれないと。お礼も言えないだろう?」
「うん、ごめん。今度から気を付けるよ」
 あらかじめ準備された台詞のように、颯太はさらさらと口にする。
「春永さん、息子がお世話になりました」
 秀史が改めて春永に向き直り、頭を下げる。
「いや、気にしないでください。ただのお節介な近所の住人なだけです」
「いろいろありがとな、春永」
「こら颯太、ちゃんと敬語で」
 父子が他愛ないやり取りをするのを、春永はどこか複雑な面持ちで眺めていた。
 一方で颯太は、そうやって何事もなかったふりをすることが、どんどん上手くなる自分を自覚する。
 大丈夫、大丈夫だから。
 このままもう少し仕舞っておこう。
 そうすればいつかなかったことになるかもしれないと、記憶にそっと蓋をした。

 春永と別れ、自宅に戻った颯太は、少し遅くなった夕食を三人で摂り、その日は三人で風呂に入った。弟のパジャマのボタンを留めてやり、秀史がセットし忘れた洗濯機の予約をして、布団の中に潜り込み、目が覚めればまたいつも通りの一日が始まるはずだった。
「にいに、にいにおきて」
 翌朝、普段なら颯太が一番に目を覚ますのだが、その日は珍しく倫に起こされた。アラーム代わりにしている母のスマートホンで時刻を確認すると、まだ朝の六時前だった。
「倫、どうした? トイレか?」
 隣で寝ている秀史を起こさないよう気を遣って、颯太はそろりと身を起こしながら小声で尋ねる。
「んーん、もうおきる」
「でもまだ早いぞ」
「おなかすいたんだもん」
 今日は気まぐれが発動する日らしく、こうなった以上はもう絶対に大人しく寝てはくれない。
…しょうがないな、なにか食べるもの―」
 そう言いかけて、颯太は倫がすでにパジャマからお気に入りのトレーナーに着替えていることに気が付いた。
「倫…お前、一人で着替えたのか?」
 倫はまだ、一人でボタンを留めたり外したりできない。だからこそ、着替えの時は颯太が手伝ってやるのが常だ。
「うん、きがえた!」
 倫は得意げに、トレーナーの身頃に描かれたキャラクターの絵を見せる。彼の布団の上には、脱ぎ捨てられたパジャマが落ちていた。おそらく肌着などはつけないままトレーナーを被っているだけなので、着替え直しは必須だが、一人でボタンを外したことは事実のようだ。
「そっか…、もう、ボタン外せるのか」
「ほいくえんでも、れんしゅうするんだよ」
「そっか。倫は一人でできて偉いな」
 颯太が頭を撫でて褒めてやると、倫は満足そうに歯を見せて笑う。
 その顔があまりに秀史に似ていて、颯太をそっと深淵の底へ突き落した。