「何度言えば分かるの、ゆたかくん。死者の霊と対話するには、まず死因の解消から始めるのよ」
 と、ハルさんは我が子をさとす母親のように答えた。
「飢えて死んだ霊には食べ物を、凍えた霊には暖かい毛布を、病死霊にはお薬をおそなえしてあげるの。死者の霊はみんな死の瞬間をいちばん鮮明に覚えているから、まずその魂から恐怖を取り去って、安心させてあげないといけないの」
「ええ、何度も聞きましたけど、だからといって、交通事故現場でエアバッグを膨らませるというのが、どうしても俺には納得できないのですが」
 納得できない、というのは控えめな言い方で、いくらなんでも馬鹿っぽい、と思っている。
 だがハルさんの顔はどこまでも真剣だ。「いいから黙ってやりなさい」ということを目で訴えている。そしてその目には、どんな茶番も真剣にさせてしまう伝染力がある。18年の人生で培った常識が、その目に解体されていくような気がして怖い。
 ついでに熱中症も怖いので、早く終わらせて日陰に入りたい。
「じゃ、たぶん動くんで、ちょっと離れてください。念のため」
「ええ」
 と言って、ハルさんが反対側の歩道に行ったところで俺はスイッチを入れた。
 あらかじめ家で試したとおり、ぼん! と間抜けな音を立てて、窒素ガスが一瞬で膨張する。あたりの空気を吹き飛ばして、エアバッグはみごとに膨らんだ。
 よーし成功、と小さな達成感の息を漏らした。
 この60年で普及したクルマの安全装置は山ほどあるが、エアバッグはとにかく視覚的なインパクトが強い。ぱんぱんに張った白い袋には、押し付けがましい程の安心感がある。これさえあれば生き残れただろう、と死者も生者も否応なく納得する。
 幽霊を相手にする上では、そういう納得が何よりも大事なのだ。と、ハルさんは言っている。
「これでいいですか、ハルさん?」
 と、俺は額の汗を拭った。ハルさんはこちらの歩道に戻りながら、
「ええ、十分よ。ありがとうね、豊くん」
 と言ってにっこり微笑んだあと、すぐ真剣な顔にもどって、
「さてと」
 地面に手ぬぐいを置いて、そこに膝をついて手を合わせた。
「自動車事故によってその生命を失い、この地に眠る後藤ごとう三郎さぶろうさん。あなたの苦しみは除かれました。どうかそのお姿を、私の前にお見せください」
 と、ブロック塀に向かって、相手を怯えさせないような小さな声で、一語一語はっきりと話しかけた。俺はその様子を、少し離れた街路樹の木陰で見ていた。
 ハルさんは霊を呼ぶ時、秘儀めいたお経とか呪文ではなく、ごく普通の日本語の文句を言う。芝居がかった演出もほとんどない。家族の墓に参るように、手を合わせて祈るだけだ。考えてみれば当たり前だ。相手はたかだか60年前に死んだ日本人なのだ。外国語みたいな経文を唱えても、霊のほうが理解できない。
 ふっ、と頭上から音が消えた。
 蝉の声が一斉に止んで、あたりが急に静かになった。