霊がそこに出現したので、蝉が鳴くのを止めた…とは俺は思わない。蝉というのは危険察知とか様々な理由で鳴き止むものだ。逆に、蝉が黙るタイミングを見計らって、ハルさんが話しかけたのだろう。彼女にはそういう、異様な勘の鋭さがある。
「こんにちは、後藤さん」
 と、さっきまでの静謐せいひつさとはうって変わって、道端で噂話をするおばちゃんのような顔になった。
「突然お邪魔してすみません。私、霊媒師をしております鵜沼うぬまハルと申しますの」
 しばらくの沈黙。ハルさんは小さく何度かうなずいてから、
「ええ、ここはあなたが住んでいた町ですよ。すっかり様子は変わっちゃったけどね。えっ? ああ、もう昭和は終わったの。ええと、今は…」
 ハルさんが俺のほうをちらっと見る。
「2019年です。昭和に換算すると94年になります」
「昭和でいうと94年よ」
 と、ハルさんは俺の言葉をそのまま霊に伝えた。
「ごめんなさいね。もうちょっと早く来られればよかったのだけれど、私じゃ準備ができなくて、今の若い子に手伝ってもらったの…」
 ハルさんは申し訳なさそうに言った。「準備」というのはエアバッグのことだろうけれど、あの無駄としか思えない儀式を60年も待ち続けた人がいると思うと、なんだか申し訳ないような気分になる。
「豊くん、切符」
「はい」
 と、俺は帆布リュックからクリアファイルを出して、ハルさんに手渡した。
「へぇ、飛行機の切符ってこんななの? ずいぶん薄っぺらい紙ねえ」
 と、ハルさんは中の紙をつまんでひらひらと振った。今朝ファミマでプリントしてきたA4コピー用紙だ。
「eチケットの確認メールですよ。このQRコードを空港で読ませれば、ハワイ行きの搭乗券をもらえるんです」
「ふうん、よくわかんないけど」
 と言ってハルさんは、クリアファイルをブロック塀に向けて、
「後藤さん、これがハワイ行きの切符よ。ここのキューアルコード? を空港の人に見せればいいんだって。キューアルコード。わかる?」
 と、壁に向かって話しかけた。
 ハルさんが話している幽霊、「後藤さん」は、太平洋戦争に従軍した、海軍所属の兵士だった。