編み物趣味は小3まで続いて、そこそこ上達した。同じクラスの西田にしだに「編み物ってお前、女子かよ」と言われてやめた。その頃には土曜のお泊りは自然消滅していた。さすがにその歳になると、家でインターネットを見ている方が楽しくなっていたからだ。
 その後ひいばあちゃんとは、お盆とか正月とかの親戚の集まりで、たまに顔を合わせるだけになった。母さんや叔母さんたちが茶の間に集まって騒いでいる間も、ひいばあちゃんは奥の間で編み物をしていた。会うたびにその精密機械のような指の動きが、少しずつ緩慢になっていったのをぼんやり覚えている。傍から見るとその佇まいは、
「気難しい一家の長」
 という雰囲気だったけれど、少なくとも俺の記憶では、ひいばあちゃんが誰かを怒ったり叱ったりすることは一度もなかった。ただ、たとえ自分の子供や孫たちであろうと、大勢の人間が集まって騒ぐのが落ち着かなかったのだと思う。
 ひいばあちゃんと最後に話したのは、大学の合格報告だった。
「電話で足りるだろ」と俺は言ったけれど、「いいから行きなさい、あと何回ばあちゃんに会えるかわからないんだから」と母さんに家を追い出され、ばあちゃんの家に赴き、ごく事務的にその事実を言うと、
「豊。あんたなら、きよしさんと同じ大学に、行けると思っとったよ」
 と、皺だらけの顔を静かに微笑ませた。
「清さん」は俺の曾祖父だ。母さんが子供の頃に亡くなったので、どういう人かは全く知らない。ただ、無表情なひいばあちゃんの初めて見せた笑顔が「清さんと同じ大学に行った」という理由なのだから、きっと仲睦まじい夫婦だったのだろう。

 それから2ヶ月もしないうちにひいばあちゃんは死に、俺は「あー、そうなの」とつぶやいた。
 火葬炉から出てきたひいばあちゃんの骨は少なかった。係員さんが「こんなに少ないのは珍しいですね」と言っていた。小柄で骨密度も百歳なみだった上に、一千度の火葬炉でかなりの部分が灰になってしまったのだ。そういう現世への未練らしきものを全く残さないのもこの人らしいな、と思った。
 骨を箸で拾うのは想像よりも難しく、拾った先からぽろぽろと崩れてしまう。苛つきながら骨片を集めているとスーツのズボンが引っ張られた。幼稚園児の従妹が隣に立って、俺の裾を引いていた。
「ねえ、なんでひいばあちゃん焼いちゃったの?」