こいごころ

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 広徳寺は隅田川から、上野の寛永寺かんえいじへ向かっていく道の、途中にある。持ち合わせのない老々丸と笹丸、若だんなは、とりあえず歩いて寺へ向かう事になった。
 薄い寝間着を着ている若だんなは、寒そうに身を縮めつつ、笹丸を救う方法を、広徳寺の名僧、寛朝かんちょうに聞いてみようと言ってみる。寛朝は商人あきんどのようにも見える、破天荒な僧だが、その法力は確かなのだ。
「寛朝様なら、きっと笹丸を救う方法を、考え出して下さると思います」
 具合の良くない若だんなに合わせ、ゆっくりと西へ歩むと、上野へ近づくに連れ、道の両側に寺の塀が続くようになる。一帯は寛永寺をはじめとする、大きな寺町であった。
「この辺りは、人通りが本当に少ないですね」
 笹丸の言葉に、鳴家達が頷いている。
「きゅい、広徳寺、近い」
 知っている場所へやってきたからか、鳴家達が元気になってくる。だが、あと少しだとほっとした時、思わぬ事がまた起きた。
「おいっ、邪魔だ、どけっ」
 上野の方から駆けてくる男が、細い道をふさぐ若だんな達を見て、怒鳴ってきたのだ。驚いた三人がけたのに、後ろばかりを気にしていた男は、すれ違うとき、若だんなを突き飛ばしてしまう。
「きゅんべーっ」
 若だんなが転び、袖にいた鳴家達が巻き込まれて、悲鳴が上がる。怒った鳴家達は塀に登ると、競って駆けだし、前をいく男に追いつく。そして男の肩に飛び乗り、無礼にも若だんなごと小鬼を突き飛ばした阿呆あほうへ、思い切りみついた。
「きょんげーっ、悪い奴っ」
 鳴家達が、男をがぶがぶ嚙んだものだから、若だんなは転んだまま、急ぎ声を掛け、鳴家を止めようとした。だが。
「おや、やっぱりあのお人は…」
「おお、こりゃ珍しい事になったもんだ」
 老々丸も、やっと事が妙だと気がつき、男へ目を向けている。鳴家達から思い切り嚙みつかれた男は、人には見えないはずの小鬼を摑み、己から引き剝がしていたのだ。
「何しやがるんだっ、この馬鹿小鬼っ」
「若だんな、あの男、鳴家が見えてるみたいだね。どうも人じゃなさそうだ」
 頷いたが、他に何かを言う間もなく、若だんなは更に驚きを重ねた。その時三人のかたわらを、墨染めの衣が、風のように過ぎていったからだ。
「きゅいっ、御坊ごぼうだ」
 僧は衣を翻し、男との間を一気に詰めると、懐から何か取り出した。そして男が僧に気がつき、必死に逃げ出した時、その背にぺたりと短冊のようなものを貼り付けたのだ。
「きょげーっ、若だんな、恐いっ」
「鳴家が怖がってる。あの短冊は護符みたいだね」
 途端、嚙みついていた小鬼達が、男から飛び逃げ、若だんなの所へ駆け戻ってきた。
 するとその時、僧の足下にうずくまった男の姿が、何やらぼやけてくる。じき、人の形が消えてしまうと、代わりに、見たことのある形が現れてきた。
「おや、あれは…驚いた」
 男は毛足の短い、丸々とした獣の姿になったのだ。背に、まだ護符を貼り付けていたから、先程の男が変わったものに間違いはない。
「妖だろうとは思いましたが。あのお人、化けだぬきだったんですね」
 若だんながつぶやくと、僧が男の傍らから振り返り、笑みを向けてきた。
「長崎屋の若だんな、お久しぶりです。今日は珍しくも、初めて見る妖二人と、一緒におられるのですね」
「げげっ、この坊さん、人の姿の我が、妖狐だと分かるのかっ」
 狐仙が声を上げたので、若だんなはまず、寛朝の弟子秋英しゅうえいに、老々丸と笹丸を引き合わせる。そして小さな笹丸を抱き上げると、秋英へ見せた。
「この笹丸が今、困っておりまして。寛朝様に助けて頂きたくて、広徳寺へ向かう所でした」
「えっ…この子の為に我が師に、縋りに来られたのですか」
 秋英は高僧寛朝の、ただ一人の弟子ゆえか、いつも落ち着いている。ところが今日は、笹丸を見て戸惑ったので、若だんなは首を傾げる事になった。
「もしや寛朝様は、他出中なのでしょうか。お会い出来ないとか」
「いやその、師は広徳寺におられます。田貫屋たぬきやさんが戻るのを、待っておいでなんですよ」
「田貫屋さんとは?」
 秋英は、そこなお方ですと言うと、背に護符を貼り付けたまま、道に転がっている狸を指さす。
「ただ、この化け狸のことで、今、寺は少々困っておりまして。我が師も、忙しくしておいでです」
 何しろ、事に妖が関わっている。そして広徳寺で妖を見る事が出来る僧は、寛朝と弟子の秋英、二人きりなのだ。
 すると老々丸が狸を見下ろし、お気楽な口調で、恐ろしき事を言った。
「困ってるって…丸々と太った狸だから、こいつを、狸汁にしたいのかな? だが、日頃精進物しょうじんものばかり食べている坊さんじゃ、作り方が分からないんだろうね」
 狸汁は、作る村も結構多いと語り、ならば我が作ってやろうかと、老々丸が言い出す。途端、汁にすると言われた化け狸が、寺町の道ばたで悲鳴を上げた。

(つづく)