小公女たちのしあわせレシピ

小公女たちのしあわせレシピ

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 正社員への登用試験を受けてみては、と勧めてくれる上司もいるが、正社員になると、最初は工場勤務と決まっている。それがいやだというわけではないが、このごろ自分は何がしたいのか、よくわからない。
 ただ楽なほうに流されているだけかもしれない。実家に戻れば家賃が浮くし、そのぶんで資格を取れるような勉強をして、なんてことも薄ぼんやり考えていたが、それが難しくなったのはともかく、これまでのんびりと現状維持を続けてきたつぐみが、先のことを考えてあせりを感じているのは、実のところ、沙也佳さやかの結婚が決まったからだろう。
 逸水いつみ沙也佳は、部屋をシェアしている同居人だ。つぐみとは前の会社で同僚だった。同い年で、それからずっと親しくしている。今は派遣で働いている彼女とは、立場も似ていたし、日頃の愚痴を言い合っていたが、これからはもう、そうもいかない。
 沙也佳の交際相手が遠方に赴任することになり、同時に結婚話が持ち上がったらしく、結婚したら彼女は遠くへ行ってしまうのだ。
 つぐみは急に寂しくなっていた。沙也佳はしっかり者で、何かと頼っていたからなおさらだ。
 沙也佳には幸せになってほしい。でもたぶん、いつまでも友達ではいられない。環境が変われば関係も変わる。これまでも、かつての友達とは疎遠になり、新たな環境でまた仲間ができることを繰り返してきたのだからわかっている。連絡を取り続けている友達でも、会う機会は減っていく。沙也佳ともそんなふうになって、だんだん会えなくなっていくのだ。新しい出会いがあるなんて言う人もいるけれど、それもやがて古くなって途切れるのなら、寂しさは埋まらない。
 連休ともなれば、沙也佳とふたりでよく旅行に出かけていたが、今回彼女は、大阪にある結婚相手の実家へ行くとのことで、つぐみはひとりぼっちだ。これといって予定もないから、実家へ帰るしかない。
 これからは、風邪を引いたときに心配してくれる人がいない。夜遅くに相手の部屋へ入り浸って、愚痴を言うこともできない。なんて、そんな情けないことは言っていられない。
 つぐみはひとり、家族連れやカップルで賑わう電車に乗った。

 四畳半の子供部屋は、かつてはどこよりも心地のいい場所だった。窓際に学習机と本棚、壁際にはベッドと洋服ダンス。友達とケンカしても、失恋しても、ここで好きな本を読みふけり、好きな音楽を聴いて、一晩寝れば元気になれた。
 慣れ親しんだ自分の部屋だから、帰るとほっとする。一方で、今ここで暮らせるかというと微妙だ。あらためて眺めると、小花柄のベッドカバーやカーテンは野暮ったい。昔はこんなものが好きだったのかと意外に思える。畳の上に敷いたラグも淡いグリーンで、それがすっかり日焼けして、きちんと入れ替えられているはずの空気も、なんとなく古びてカサカサしている。
 ぐるりと見回してみるが、これといって必要なものもない。参考書も教科書も、昔の服もカバンももういらない。かつては大好きだったぬいぐるみも、キラキラして安っぽいアクセサリーも、大人になったつぐみには意味のないものだ。けれども部屋がなくなってしまうとしたら、記憶の居場所を失うような、寄る辺ない気持ちになるのだった。
 たまに帰省していたときは、何も考えずに寝起きするだけだった部屋が、急に饒舌になって語りかけてくる。オルゴールの箱にはあのころ一番気に入っていたビーズのブレスレット、鍵付きの引き出しには日記帳、写真立てにはファンだったタレントの切り抜き。ここには紛れもなく、過去の自分がいる。
 だけど、もういらないんだから。つぐみは本棚に歩み寄る。教科書や参考書とともに、コミックや雑誌や小説が雑多に並んでいる。背表紙を眺めていると、かつての自分が好きだったもの、興味のあったことが次々と浮かびあがってくる。捨てるのは忍びなくなってくるけれど、持ち込める部屋もない。それにたぶん、生家に置いたままになっているものは、ここを出たときにつぐみが自分から切り離したものなのだ。高校を出てから、一度も手に取ろうとしていないのだから。
 しかしふと、つぐみは目に止まった本に手をのばしていた。背表紙に『小公女』とある古びた本だ。函入りの児童書なんて持っていただろうかと、本棚から取り出してみるが、祈るように手を組んだ少女の装画には見覚えがない。函の中の表紙も同じ絵だ。