額装師の祈り 奥野夏樹のデザインノート

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 つぐみの記憶にある『小公女』は、もう少し小さいサイズで、たぶん、岩波少年文庫だったような気がする。少なくとも、こんなハードカバーの本ではなかったはずなのだ。
 自分の『小公女』はどうしたのだっただろう。小学生のころ夢中になって読んで、大好きだったけれど、あのころの本はみんな、年下のいとこにあげてしまったのではなかったか。
 それにしても、どうしてつぐみの部屋の本棚に、見たことのない本が紛れ込んだのだろうか。いつからここにあるのかもわからない。帰省しても、本棚を意識して見たことがないからだ。
 ぱらぱらとめくってみると、紙切れが一枚はさまっていた。折りたたんだ便せんには、下の方に“ホテルのはな”とロゴの印刷が入っている。ホテルの客室に置いているものだ。そこにボールペンで書かれているのは、手紙ではなく、料理のレシピのようだった。
 バター、タマゴ、砂糖に小麦粉、レーズン、蜂蜜…、そのあとには作り方がきちんと整った細かな字で綴られている。なんとなく目を走らせて、甘いお菓子の作り方だろうと想像する。けれど、どうしてこんなものが『小公女』にはさんであるのだろうか。
「ねえねえ、つぐみさん、お昼まだでしょ? いっしょに食べない?」
 部屋の外から声がかかり、つぐみは顔を上げた。振り返ると、兄の妻の千枝が開けっぱなしのドア際からこちらを覗き込んでいる。
「うん、ありがと。今日はみんな忙しそうだね」
「まあねえ、いちおうビジネスホテルだけど、連休で満室。港で音楽のイベントがあるみたい」
 全二十室の小さなホテルだ。観光地ではないが、いちおう県庁所在地なので、平日は仕事での利用者も途切れない。海が近いので夏場は忙しいし、イベントやコンサートがあるときも予約が入る。都会でもなく、かといって温泉も名所もない中途半端さに、大手のホテルが進出してこないからか、“ホテルのはな”は、この場所で細々と経営を続けている。
「大変だね。世の中が休日なのに休めないでしょ?」
「平気。楽しくやらせてもらってるから。あたしの生け花、わりと評判いいんだよ。見た?」
「ロビーのやつ? 見た見た。あれ、豪華だったね」
「最近習ってるの。お客さんもほめてくれるのがうれしくって」
 千枝は生き生きした笑顔を見せる。五歳年下の義姉だが、誰に対しても垣根がなく、屈託なく打ち解ける女性だ。まとめた髪が少し茶色いのも、つけまつげがびっしりなのも愛嬌で、結婚前の彼女はもっとギャルっぽかった。
「そうだ、これ、もしかして千枝さんの? わたしの部屋にあったんだけど」
 思いついて、つぐみは『小公女』の本を見せる。かつて少女だった人が読むものだろうし、少なくとも兄のものではないはずだ。
「ん? 違うよ。あたし、本なんて読まないし」
 彼女はあっさり首を横に振った。
「じゃあ、誰のだろ」
「つぐみさんの部屋へ入るのは、お義母さんくらいじゃない?」
 つぐみの本だと母が勘違いして、本棚に入れたのだろうか。お客さんの忘れ物なのかもしれない。あとで母に訊いてみようと、学習机に置き、つぐみは千枝といっしょに階下へ行く。ダイニングルームの窓の外には、ホテルの建物がせまっている。
 プリンみたいな建物だと誰もが言う。クリームイエローの外壁を持つ三階建てのビルで、屋上を囲む部分がカラメルソースみたいな焦げ茶色だからだ。ホテルの裏にある住居からは、外の景色がほとんどホテルにさえぎられていて、見晴らしがいいとは言えないが、見慣れたプリン色の建物がそこになかったら、むしろ落ち着けないだろう。
「今日のまかないは、焼きそば、目玉焼き付きだよ。あたしの得意料理」
 テーブルには、ふたり分の焼きそばが置いてある。今日のまかないは千枝の担当だったようだ。ホテルが提供するのは朝食のみで、それは母がつくっているはずだが、いずれは千枝が任されるのだろう。