【聞きたい。】亀山郁夫さん『新カラマーゾフの兄弟』
[文] 桑原聡(産経新聞社 文化部編集委員)
■「父殺し」のサスペンス
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の設定を日本に移し、文豪の突然の死によって書かれることのなかった第2部を書き継ぐことで、亀山郁夫さんは自身の「父殺し」を企て、父性的なものを喪失した日本社会に警鐘を鳴らす。
物語は1995年8月31日から始まり9月11日で閉じられる。13年前の82年に黒木家で起こった母の自殺と父の殺害をめぐる心理サスペンスドラマだ。黒木家の3兄弟の物語と亀山さんの分身である大学教師Kの物語が並行して描かれる。
東京外国語大学の卒論でドストエフスキーを選んだ亀山さんは、師の原卓也さんが認めてくれないというコンプレックスを抱き、師の引力圏から逃れるようにロシアアバンギャルド芸術の研究にのめりこむ。ソ連崩壊後の94年からロシアに1年間暮らした亀山さんは、オウム真理教が混乱するロシア社会に浸透する様子を目の当たりにし、母国で起きた阪神大震災に衝撃を受けた。95年に帰国するやオウムによる地下鉄サリン事件が起きる。
スターリン研究をきっかけに亀山さんはドストエフスキーに本格復帰、2004年に『ドストエフスキー 父殺しの文学』を上梓(じょうし)して、病床の師に献呈する。「ほめてはくださいましたが、認めてはもらっていないと感じました」。数カ月後師は永眠する。学問上の父を殺し自立しなければとの思いに突き動かされた亀山さんはドストエフスキーに没頭する。その成果のひとつが『カラマーゾフ』の新訳。さらに研究成果を注ぎ込み『カラマーゾフ』第2部を書くと決めたとき、95年の日本を舞台にするしかないと考えた。「阪神大震災、オウムの浸透、インターネットの出現…。日本は大きな曲がり角に立っていました。その深層には父性的なものの喪失があり、それは『カラマーゾフ』の主題『父殺し』と結びつくはずだと直感したのです」(河出書房新社・上巻1900円+税、下巻2100円+税)
桑原聡
【プロフィル】亀山郁夫
かめやま・いくお 昭和24年生まれ。『磔のロシア』で大佛次郎賞、『謎とき「悪霊」』で読売文学賞研究・翻訳賞、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳で毎日出版文化特別賞を受賞。