【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】諫早菖蒲日記 [著]野呂邦暢
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
長崎に生まれ、諫早(いさはや)に育った野呂邦暢(のろくにのぶ)にとって諫早はかけがえのないわが町だった。「草のつるぎ」で芥川賞を受賞しても東京に出ることはなかった。地方の小さな町に住み、市井人を見つめる。
本書は、はじめての歴史小説。幕末の諫早藩に生きる砲術指南の武家一家を描く。佐賀鍋島藩の支藩。一万石の小藩で、城さえない。しかし長崎に近いため長崎港の警備に当らなければならない。
折りから外国船の往来が激しくなっている。当主の藤原作平太は砲術指南を務めるだけに心の安まることがない。
この小説がいいのは、幕末の小藩の混迷、重責を負う藩士の労苦を、作平太の娘の目で描いていること。志津という十五歳の少女のういういしさが、歴史小説にありがちな重苦しさを消している。
利発な志津は、娘なりに父親の職務を理解している。苦しい内証をやりくりする母親を思いやる。他方、少年のように野山を歩く。爺やの狸狩りについてゆく。漁師たちの勇壮な鯨漁に胸躍らせる。向田邦子がこの小説を愛したのも志津が生き生きと描かれているからだろう。
梅雨の長雨で町を流れる本明(ほんみょう)川が氾濫する。また、耐え忍んできたひとりの侍が、ついに鍋島藩士を斬りつけ、責任を取って、腹を切る。さらには激務の続いた父親が病いに倒れる。
物情騒然たる世、次々に事件が起るが娘の目から語られるために殺伐としていない。志津は母親に隠れ、こっそりと化粧をする。若い藩士をひそかに慕う。娘心がいじらしく、愛らしい。
文章は明晰清澄、詩藻豊か。藩の地誌や志津の暮しが丁寧に書きこまれる。諫早を舞台にしたもうひとつの傑作(現代小説)『鳥たちの河口』で描かれた、町を流れる本明川がここでも物語を支える。
そして随所に花々が咲く。夾竹桃(きょうちくとう)、てっせん、けし、芹(せり)。何よりも志津が大事に育てる菖蒲(しょうぶ)。志津自身、花そのもの。
野呂邦暢は本書の完成後、一九八〇年五月、まさに菖蒲の季節に急逝。四十二歳だった。諫早市の上山(じょうやま)公園に文学碑があり、冒頭の「まっさきに現われたのは黄色である」が刻まれている。