はしたなうてこそ漂はめ――堀江敏幸『その姿の消し方』のほうへ

レビュー

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その姿の消し方

『その姿の消し方』

著者
堀江 敏幸 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104471058
発売日
2016/01/29
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

はしたなうてこそ漂はめ――堀江敏幸『その姿の消し方』のほうへ

[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)

 堀江敏幸の小説についてのエッセイでいきなり何を言い出すと思われるかもしれないが、私は「きちっと」という言葉が苦手である。「きちんと」はいいのだが、「きちっと」にはどうも困る。「きちんと」のほうは、「き」と「ち」という音の尖ったところを「ん」が受け止め、行き届きつつ締め付けない柔らかさを作り出しているが、「きちっと」の「っ」は言いっぱなしだ。言いっぱなしの中に聞き取れる、規矩準縄におさまらぬものは「と」までの間にしかるべく改善せよ、という響きが、私を落ち着かない気分にする。ちなみに、「きちっと」はかつて私の中学・高校時代に生徒指導の先生方が多用した言葉であり、現在でも、テレビのニュースでお目にかかる政治家の先生方が多用する言葉である。

 堀江敏幸の文章を「端正」と評することはもはやクリシェと化した感があるが、そこにあえて一言付け加えてよければ、その端正さは「きちっと」ならぬ「きちんと」した行き届きと柔らかさの同居に支えられているのではあるまいか。それは、こちらのメンタル・スペースにずかずか踏み込んでくる「正しさ」ではなく、道具が使いやすく配置された厨房で無駄のない仕事をする料理人の動きを見ているときの心地よさに近いだろう。『雪沼とその周辺』『未見坂』といった、ほんのりと物語の風味を帯びつつ、語られる人々の内面の葛藤から慎ましやかな距離を置いている短篇群において、その感はことに強い。

 一方、『河岸忘日抄』のように、視点人物のメンタル・スペースが形成され守り育てられてゆく過程そのものを題材とする作品を読むことは、私にとって時にひりつくような体験でもある。もちろん、そこでも堀江の文章は「正しさ」を読者に押しつけたりはしないのだが、『河岸忘日抄』の「彼」が自分の生活の細部から繰り広げてゆく内的な思索の丹念さは、しばしば、こちらの生活のあちこちに巣食っているはしたなさを映し出す鏡であるかのように感じられるのだ。例えば、この小説を読んでいた時あたかも、私は同居人と「フライパンのテフロン加工が剥げてきたからそろそろ新しいのを買わないと」という相談をしていたのだが、そこで出会ったのが作中の「料理を駄目にしたのはテフロン加工だ……テフロンが排除したオイルの濫用とこげつきこそ、じつは料理という音のなかのノイズであり、ノイズがなければ味に深みが出ない」という「彼」のつぶやき、そして「世の中の動きがあげてこのテフロン的な表層に、こげつかない言葉に向かっているような気がしてならなかった」という感慨である。思いがけず痛いところを突かれた気分で、ハッとした。なにもフライパンの選択だけの話ではない。わが身を顧みれば、文学の学位を語学教育の能力に無理やり読み替えた教員商売を開業してはや十年余り、自分ではそのつもりでなくとも、いつの間にか効率と利鞘のためのはしたない割り切りで精神がテフロン加工されてしまったところはないかと赤面させられたのである。

 ところで、ここまで「はしたなさ」という言葉を私は「端正」「丹念」の対極にあるものとして使ってきたのだが、ふと気になって手元の『小学館古語大辞典』を引いてみて、だいぶ驚いている。古語「はしたなし」の意味の根本は「はし」であること、つまり「中途半端だ、どっちつかずだ」であるというのだ。紹介されている用例のひとつは、「人の心とどめ給ふべくもあらず、はしたなうてこそ漂はめ」という、『源氏物語』からのもの。「漂はめ」という言葉が、なかんずく私の眼を射る。この「漂ふ」が意味するのはもちろん物理的な水上の漂流ではありえないが、それにしても、私が単にあさましさを表すために使った「はしたない」という言葉が、河岸に繋がれた船の中で続けられる心の漂流を主題とする小説『河岸忘日抄』とこのように地下水脈のような縁を持っていたことは、テフロン加工の心なき身にも多少の感慨を催させずにおかない。私は「はしたない」のポテンシャルを見くびっていたのかもしれぬ。

 もっとも、『小学館古語大辞典』の説明によれば、『源氏物語』の頃には「はしたなし」は「中途半端な状態から生ずるきまり悪さ、困惑など、心情を主として表す」ようになっていたという(私が先に使った意味の「はしたない」は、そこからさらに変化したのだろう)。右の用例は、夫婦の別れに際して、将来息子たちが父の愛情を繋ぎ留められず「漂ふ」であろう状態の「はしたなさ」つまり中途半端さの困惑を思いやって母が嘆く言葉だ。一方、『河岸忘日抄』の「彼」が河岸に繋がれた船の中で考え続けていたのは、中途半端な状態に困惑したりせず、いわばどっちつかずの中途半端さを豊かに充実させることによって人間性をゆっくりと修復し、いずれ訪れるであろう「自分ひとりしかいない穴蔵での偽りの孤独から、他者の海に囲まれた離れ小島の孤独への転換を図る」ときに備える方法だった。

 ここで私が思い合わせるのは、十九世紀の詩人ジョン・キーツが詩作の要件として挙げた「ネガティヴ・ケイパビリティ」である。「事実や理由を掴もうとして性急に手を伸ばしたりせず、不確定さ、不可解さ、疑いの中に留まる能力」とキーツが説明するこの言葉は、これまで「消極的能力」「受容的能力」などと訳されてきたが、それらではキーツがこの語にこめた逆説的な積極性が失われてしまう。少なくともこのエッセイの中では、いっそ「割り切らないでいる力」と訳してしまいたい誘惑を私は感じている。なぜなら、私の文章が「スイッチバック」(『燃焼のための習作』のキーワードのひとつ)を繰り返しつつ近づこうとしている堀江敏幸の最新作『その姿の消し方』においては、どっちつかずであること、決めがたく揺れ動くことの積極性が『河岸忘日抄』よりさらに楽天的な形で打ち出されているからだ。

 楽天的というと、『その姿の消し方』に対する評語としてはいささか奇妙に響くかもしれない。この小説を「あらすじ」にまとめるなら――そのような行ないに意味があるかどうかは別として――これは失敗に終わる探索の物語であり、その探索の対象も決して明るいものではないのだから。一九九〇年代の初頭、フランスに留学していた「私」は、一篇の詩らしきものが記された、一九三八年の日付が入った絵はがきをある古物市で見つける。「アンドレ・L」と署名されたその「詩」の言葉つきに惹かれた「私」は、同じ「詩人」の手になるとおぼしき数枚の絵はがきを手に入れる。日付はいずれも一九三八年。それぞれに記された「詩」は、迫りくる欧州の戦乱と「夜の霧」を予感させるようなほの暗い不穏さを湛えている。それから十数年後、再びフランスを訪れた「私」は、それらの葉書の裏に印刷されている建物がかつてM市で暮らしていた会計検査官アンドレ・ルーシェのものであることを知る。生前のルーシェを知る人とも繋がりができ、アンドレが独軍占領下のM市でレジスタンスに加わっていた可能性が浮上してくる。だが、可能性は可能性のままに終わり、アンドレの「詩作」については何ひとつ確定的なことは分からない。ついには「私」にも、自分がアンドレの「詩」の力に惹かれているのか、「姿を隠しながら彼が示しつづける不在の根に共感を覚えている」のか、分からなくなってくる……。

 そんな話のどこが楽天的なのだ、という問いが発せられるとすれば、おそらくその根底には、小説には目的論的なゴールが設定されていなければならないという考えがある。「それで、その『詩人』についての探索は、何かの発見につながるのか? ほとんど何も? ということは、それは失敗の物語であって、つまりは悲観的に書かれているんじゃないか」というわけだ。だが、そうした目的論的な小説の読み方を裏切るところにこそ、この小説の楽天性はある。目的論的な世界観からすればこの小説にはさっぱり実がないかもしれないが、この小説の言葉にとっては、俗な言い方をしてよければ、山川の末を流れる橡殻(とちがら)のように、実(身)を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるのだろう。

 浮かんだ瀬々で『その姿の消し方』の端正な文章が柔らかく描きだすのは、多くの場合アンドレ・ルーシェという不在の探索とはあまり関わりがない、しかし人がこの世に生きている/生きていたことを間違いなく証拠立てる小さな場面の数々である。デッキブラシをエレキギターのように構えてかき鳴らすアルジェリア系の厨房係のおじさん然り、自転車に乗れないことをついに言いだせなかった少年も然り、雌牛と一緒に乗り込んだ貨車でピアノを運搬中のピアノ販売員とワインを酌み交わし、一杯機嫌の販売員が奏でる流行歌に耳を傾けた酪農家もまた然り。それらはみな、ルーシェが書きつけたほの暗い「詩」の「厳密な曖昧さ」が逆説的な楽天性をもって引き寄せてしまった、ゆるやかな縁でつながりつつ世界を漂う「はしたなき」生の実相なのだ。

 ルーシェの詩作の実態を突き止める望みもだいぶ薄れてきた頃、「私」はもう一度フランスを訪れ、市場の屋台で、浜辺に打ち上げられた「座礁鯨」の絵はがきを手にする。店主のおばさんとのやりとりの中で、「私」はこのように考える。

座礁するには、しっかりした力が、ぶれない軸が必要なのだ。「われわれ」のように小さな生きものはただ大洋にふわふわと漂って、いずれ何者かの胃の腑に落ちるのを待っていさえすればいい。身の程をわきまえていれば、もしかするとそのままピノキオのようになれる日が来ないともかぎらないのだから。

 ふわふわと漂う小さな生きもの。「はしたなうてこそ漂はめ」。この元々は悲観的なフレーズを私は『源氏物語』という河岸から盗んで曳航してきたわけだが、このへんでそろそろロープを切り、『その姿の消し方』と一緒に、いずかたへとも知れぬ楽天的な漂流に送り出してやってもいいのではあるまいか。

新潮社 新潮
2016年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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