あなたが消えた夜に

『あなたが消えた夜に』

著者
中村, 文則, 1977-
出版社
毎日新聞出版
ISBN
9784620108179
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

百年越しの回答

[レビュアー] 倉本さおり(書評家、ライター)

 神の視点。

 小説世界におけるそれは、その場に存在しないのに、登場人物の行動や内面を俯瞰する「語り手」のことを指す。

 だが、ソーシャルメディアの興隆を通じてすべての人が「語り手」となりえた現代、「神」の立ち位置もずいぶんお手頃に補正されているのではないか。

 小さな町で起きた連続通り魔事件。〈僕〉こと所轄警察署の刑事・中島は、本庁の捜査一課からやってきた女性刑事・小橋とペアを組んで捜査網に加わることに。犯行現場で目撃されているのは、いずれもグレーのニット帽にグレーのコートという出で立ちの男。マスコミは一連の事件を「〝コートの男〟連続通り魔事件」と名付け大々的に報道する。ところが、その呼称の浸透と比例するように、各地で「コートの男」を名乗る者が続出。容疑者らしき男の身柄を拘束したはいいが、やがて新たな死体が発見され、錯綜する情報に警察はすっかり翻弄されていく。いったい「コートの男」とはなのか?

 被害の抑止そっちのけでパワーゲームに勤しむ上層部。視聴率を稼ぐために過剰に「怒り」を煽るマスコミ。興味本位で便乗する大量の模倣犯たち。通常の理解の埒外にあるような、いかにも非情な「犯人」像がひとり歩きする一方で、「犯人」以外の――いうなれば、現実の延長線上にいる人間たちの行動が巻き起こす卑しさや醜さが、事件の表層をつくり変え、真実から遠ざけてしまう。加えて、冒頭から前景化される〈僕〉(=中島)自身の暗い過去と罪悪感が、その混乱を助長させる。

 第一部と第二部で構成される前半では、ミステリーとしてのプロットの上に、あらゆる「悪」のバリエーションが綴られていく。さまざまな姿で提示されるそれが、「解決」に至るまでのリニアな手順をことごとく否定する。二転三転するスリリングな展開と、甘やかなカタルシスを拒絶する沈鬱で重苦しい雰囲気は、警察小説の王道といったところだ。

 だが、この作品には非常にいびつな点がいくつか存在する。その最たるものが、中島とコンビを組む小橋の場違いな二次元キャラっぷりだろう。

 まがりなりにも捜査一課所属の優秀な刑事(デカ)にして、若くて美人。おまけにド天然。もうこの時点で萌えきゅんファンタジーの産物だが、胸ポケットに羊羹を常備しているだの、髪の毛がカイワレになっていじめられる夢を見ただの、重要参考人との会話そっちのけでパフェに夢中になるだの、もはや放送事故すれすれのユルいやりとりの数々に、大半の読者は強めにツッコまずにはいられないはず。要するに、そこに描かれているのは、徹底してフィクショナルなキャラクターの在り方なのだ。

 ところが第三部に入り、とある人物の手記を通じた長い長い独白が始まることで、この作品の姿は一変する。明らかになっていくのは、あまりに救いのない事件の「真相」――社会から弾き出されてしまった者同士の、自傷行為にも等しい壮絶な愛憎の顛末――であると同時に、ほかでもない、「書く」という営みに対する作者本人の強烈な自意識だ。そして問題の本質は、むしろ後者のほうにある。

〈書くという行為は、一種の罪なのかもしれない〉

「「書く」という罪」の章タイトルにも表れているように、手記の中でそれは幾度となく自己言及される。

〈書く、という行為は難しい〉

〈ちゃんと書こうか。誰かがのぞき見してる気がするんだが……〉

 実際、私たち「読者」は、この手記における「語り手」――すなわち「書き手」自身も気づけなかった、ほんのわずかな欺瞞の存在が、後にひとりの女を死の淵に追いやることになるさまをつぶさに目撃するのだ。

〈全ての事件が終わってからこれを読めば、もう、その読む人は先がわかってることになる。まだ僕にわからない先が。先がわかってるものを、読んでいく。それが神の視点だろうか?〉

 書かれたものであること――その自己言及のベクトルが、ここでくるりと反転することに気づくだろう。「神」の視点――この場合のそれが何を指しているのかは、次に引用する箇所にも充分すぎるほど表れている。

〈今、視線を感じた。この文書を書いている僕を、真上から見つめる強烈な視線。(中略)これは、神だろうか? 神の、つまりはあなたの視線だろうか?〉

〈あなたは僕達を見てるのでなく、全てを味わってるんじゃないか? 僕達の不幸も悲しみも全て。それなら僕はあなたの楽しみから外れるために狂おう。いや……、あなたは僕のその狂気も楽しんで味わうのかもしれない〉(太字は原文傍点)

「悪」や「内面」、そして「不幸」や「狂気」といった、ややもすればこそばゆくなるような言葉と呼応するように、作中で何度も強調される「神」――すなわち「読者」の存在。いつだって安全な場所からすべてを俯瞰し理解しているつもりになっている私たちは、そうしたクリティカルな観念を定型のフォームに押し込めてやすやすと消費してしまう。その視線の在り方は、小橋の萌えキャラぶりに向けられるそれとなんら変わりはない。

〈「ニュースでも、ありふれた事件として報道されるでしょう。人間の堕落の真実はいつも表層に隠れる。真実はいつも、人々が望むようなわかりやすさの中で語られる」〉

 前半、物語の傍流にいる男がこんな発言をする。「人々が望むようなわかりやすさ」――犯人像を「キャラ」として変換し、真実を「だから」でつなぎながら記号的に処理する。そうした行為がすでに適用化されている現実のあやうさを、フィクションの側から愚直に穿っているのだ。

「神の視点」など現実に存在しない。

 繰り返し登場する「名探偵がいない」という台詞は、むろん「読み手」へ向けた警鐘にほかならない。

 ミステリーと独白。ちょうど百年前、同じように新聞小説として発表された漱石の『こころ』。その構成とぴったり相似をなす形で綴られている点に、特別な意味を見出さないほうが不自然だろう。

 人間が人間であるとはどういうことか。本作は、のちに自らも格化されることになった、かの大文豪の問いかけに対する、百年越しの回答なのである。

新潮社 新潮
2015年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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