『雁』
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妾になった庶民の娘…明治の東京を描いた森鴎外『雁』
[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)
山本夏彦翁は、大正の東京大震災で江戸からの面影をとどめていた物や習慣が消えてしまったと言っておられた。この『雁』の背景は明治十三年の出来事だったと鴎外は時代を明示している。すると当時の東京の庶民の生活ぶりや考え方も江戸時代とたいして変らなかったと考えてよい。
一方、維新の文明開化で東京大学も出来て間もない頃だ。この物語の語り手はその医科大学の学生ということになっている。まだ旧時代的生活感覚で生きている庶民と、文明開化の先端にいる大学生の話であるが、鴎外の筆はその頃の東京の上野附近の状況をおそろしく丁寧にくわしく描き出している。
物語りは、大学の寄宿舎の小使いの一人に末造という男がいたが、その男がお金を貯め、ついには立派な(?)高利貸しになり、妾を持つことを中心に組立てられている。われわれはこれによって、当時の庶民の娘がどのようにして妾になるものであるか、その一例を具体的に知ることになる。妾として売られた娘のお玉は父親を少しも恨んでいない。とても父親思いで、自分を売った父親の老後の生活を安定させてやったことに満足し喜んでいる風でもある。父親も娘を妾にしてくれた檀那に感謝して、娘にはその檀那(末造)によく仕えるように注意し続ける。
妾になったお玉は、下女を使える身分だ。閑居しているお玉の家の前を医科大学の学生たちが通る。その中の一人が岡田で美男でもある。偶然顔を合わせた時、岡田はちょっと頭を下げてくれたのである。岡田には別に意味があったわけでないが、お玉には自分の人生を改めて考えるという機縁になるのだ。そのうちたまたま末造の買ってくれた小鳥を蛇から岡田が救うということがあった。お玉はこれをチャンスに岡田にお礼を言いたいと思って、特別に化粧して待ちうける。ところが雁を岡田が石で殺しそれを喰べることになったために、その機会は永久に失われる。
去りゆくあの影 消えゆくあの影
…… (時雨音羽作詞)
と「君恋し」の映画の流行歌の通りで終るのだ。