【名古屋闇サイト殺人事件】被害者である磯谷利恵さんの誇り高き抵抗に、心が震え、勇気づけられる

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彼女の誇り高き抵抗に、心が震え、勇気づけられる

[レビュアー] 崎谷実穂(ライター)

 下手なりに将棋を指している身として、大崎善生氏の『聖の青春』はひとつのバイブルである。夢破れた奨励会員をテーマにした『将棋の子』、女流棋士の娘・渡辺日実さんの心中事件を追った『ドナウよ、静かに流れよ』、将棋界と関わりが深い団鬼六の人生をたどった『赦す人』と、これまでの大崎氏のノンフィクションはすべて、将棋と何らかの関係があった。

 だからこそ、五作目のノンフィクションのタイトルが『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』だと知り、意外に感じた。それと同時に、強い興味がわいた。“闇サイト”と呼ばれる犯罪の仲間を募るサイトで集まった三人の男が女性を拉致し、殺害した特異な事件。この題材を、大崎氏がどう描くのか。被害者である磯谷利恵さんが亡くなったのは、今の自分とほぼ同じ年齢のときだ。彼女はどんな人だったのか、事件当時何があったのか、詳しく知りたい。そう思ってページをめくり始めた。

 本作品は利恵さんの人生を、利恵さんの母親・磯谷富美子さんの子供の頃から遡って描いていく。利恵さんがまだ幼い時分に、父親の末吉さんは病でこの世を去る。そこから、母娘二人きりの生活が始まった。利恵さんは、高校の担任に「どうやったら、あんな素晴らしい娘さんに育つのですか?」と聞かれるほど、思いやりのあるしっかりした子に育つ。大学をやめると決意し母親と意見がぶつかることもあったが、就職してからは「母にマイホームを買う」という夢を胸に、熱心に働いていた。

 三十歳になるとき利恵さんは囲碁を始め、囲碁カフェで大学院生・瀧真語さんと出会う。趣味に囲碁を選び、数学者に惹かれるところからは、利恵さんの理知的な性格がうかがえる。二人は数字を言葉に変換して遊ぶことがあった。この「語呂合わせ」が奇しくも、その後の伏線となる。お互いを大切に思い、愛情を育んでいく二人。しかし、その交際は知り合って四ヶ月であっけなく幕を閉じる。

 運命の二〇〇七年八月二十四日。闇サイトで集まった男三人は強盗のターゲットとして、「貯金をしてそうな地味なOL」を探していた。不運にも彼らの目にとまった利恵さんは、自宅のすぐ近くで連れ去られる。殴られ、首を絞められながらも利恵さんは「話を聞いて」「殺さないって約束したじゃない」と説得の姿勢を崩さない。最終的には顔面をガムテープでぐるぐる巻きにされ、四十発ほどハンマーで頭部を強打されて絶命。死因は窒息死だった。ハンマーで殴られている間も、彼女は生きていたのだ。どうしてこんな残酷なことができるのか。でたらめで圧倒的な暴力の描写に、こちらの心もずたずたにされる。

 どうにかして助かる道はなかったのか。自分が考えたってどうにもならないとわかっていても、考えずにいられない。それは利恵さん自身が最後まで希望を捨てず、生き延びる道を探し続けたからだ。車に押し込められても毅然とした態度を保ち、レイプはしないと犯人の一人に約束させるなど、決して彼女は犯人の言いなりにならなかった。そして利恵さんは、死の瀬戸際で犯人たちに一矢報いる。命は失っても、母親のために貯めた八百万円は渡さない。そう覚悟して口にした、偽の暗証番号。四桁の数字に込められた意図は、彼女の死後、恋人の手によって解読されることになる。

 なんと強靱な意志を持った人なのだろう。本事件について中日新聞に記事を書いた記者・小椋由紀子さんは利恵さんのことを「心から誇りに思う」と振り返った。一読者である私も、そう感じた。磯谷利恵という女性を、彼女が最後まで希望を捨てずに闘ったことを、知ることができてよかった。そして彼女の人生を書き記したのが、人の心を揺さぶる物語としてノンフィクションを書いてきた作家・大崎善生でよかった、と。大崎氏はインタビューで本作が「作家人生のピリオド」と言っていたが、将棋という枠から放たれた今、さまざまな領域の人の生きた軌跡を大崎氏の手で残してほしいと願う。

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KADOKAWA 本の旅人
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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