井上荒野が描いた「愛の不時着」のオマージュ作にヤラレタ……歌人・俵万智が胸を熱くしたラブストーリー

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僕の女を探しているんだ

『僕の女を探しているんだ』

著者
井上, 荒野, 1961-
出版社
新潮社
ISBN
9784104731060
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

遠回りで本質的な「愛の不時着論」小説

[レビュアー] 俵万智(歌人)

愛って何なのかな? 自分の幸せ以上に相手の幸せを願うことかな――。ドラマ「愛の不時着」に心奪われた作家・井上荒野による熱いオマージュの込められたラブストーリー『僕の女を探しているんだ』が刊行した。ヒョンビン演じる主人公のリ・ジョンヒョクへの愛に溢れた本作の読みどころを、歌人の俵万智さんが紹介する。

俵万智・評「遠回りで本質的な『愛の不時着論』小説」

 三年前、雑誌の対談で、桐野夏生さんと井上荒野さんが「愛の不時着」、特に俳優ヒョンビン演じるところのリ・ジョンヒョクに、いかにハマったかを熱く語っているのを読んだ。「同志よ!」と親近感を抱いたし、このお二人がこうなら、私がこうでも仕方がない、と安心もした。「愛の不時着」は通して七回見たし、ヒョンビン出演作は映画からドラマに至るまでほぼ網羅し、ファンクラブに入ったうえ、頼まれもしないのに「『愛の不時着』ノート」なる連載をネットで書いたりしていた。

 荒野さん原作で、ヒョンビン主演の映画「愛してる、愛してない」を見たときには、身をよじって羨ましく思った。これって現実に接点が生まれる可能性もありなのでは!? 荒野先生、その時はお供させてください!……つまりミーハーとしての発想しか持っていなかったことを、今深く恥じている。

 今というのは『僕の女を探しているんだ』を読み終えた今だ。リ・ジョンヒョク愛が、こんな形で結晶するとは。まことに上品な、小説家としての誇り高きオマージュと言っていいだろう。「『愛の不時着』ノート」で、主人公の二人は(肉体的に)いつ結ばれたか問題をえんえんと書いて盛り上がっていた自分を、どつきまわしたい。

 九つの短編に登場するリ・ジョンヒョクは、まぎれもなく彼で、こういう場面でなら、こう動くだろうし、こう言うだろうし、こう微笑むだろう、としか思えない。現代の日本のせちがらい日常に投入された彼は、あまりに美しい救世主だ。ありえないけど、ありえてほしいことを、ありえるように書いてみせる、それが小説なのだとあらためて思った。

 ピアノ、アロマキャンドル、貝焼き、自転車二人乗り、インドのことわざ、寒いときにボンネットをたたく習慣……こういったキーワードで胸が熱くなる「愛の不時着」ファンなら、まちがいなく楽しめるだろう。短歌には本歌取りという技法があるのだが、それに近い効果を感じた。誰もがよく知る短歌(これを本歌という)の一部を借りてきて、その世界観や景色を踏まえつつ、新しい要素を加える手法だ。読者は、本歌の味わいをスパイスとしつつ、新たな世界を味わうことになる。まことにお得な先人の知恵で、古典和歌ではポピュラーな技法のひとつだ。ただ、悲しいかな現代短歌においては、本歌になるような「誰もが知っている短歌」がそれほど多くないため、活用が難しいと感じることも多い。

 その点「愛の不時着」は、本歌としての資格は十二分だ。アロマキャンドルが出てくれば、あの市場の名シーンが脳裏を過ぎり、自転車の二人乗りとくれば、北朝鮮の暗い夜道が思い出される。小説のストーリーを楽しみつつ、私たちは読む歓びを何倍にもできてしまう。

 読者のお楽しみを奪ってはいけないので、あげるのは、あと一つだけにしておこう。「塔、あるいはあたらしい筋肉」の中のスーツを見立てるシーン。これはもうズルイというくらい、本家「愛の不時着」の場面が蘇ってきて、しばらくうっとり目を閉じてしまった。この時間コミで、作者は描いているのだ。ヤラレタ。小説の手法として、こういうのって今まであったのだろうか。

 いっぽう、「愛の不時着」を知らない人にも、たっぷり楽しめる短編集である。私などは、むしろもっと不時着不時着したお話なのかと期待していたくらいで、その要素はピンポイントで仕込まれている感じだ。逆に、まったくヒョンビンのリ・ジョンヒョクを見たことのない人が読んだら、どんな男前を想像するのだろうか。その余地がまだ心にある人を、羨ましくも思う。

 さらに九つの短編を通して、リ・ジョンヒョクの「ある時間」が表現されているところが素晴らしい。洞窟が舞台の一編に始まり、クリスマスシーズンに雪が降る話でこの短編集は幕を閉じる。「愛の不時着」において、まさに洞窟から雪の日にいたるまでのリ・ジョンヒョクは描かれていない。だからその日々を想像することは自由でしょ、と荒野さんはウインクする。

 そして本家とはまったく違うシチュエーションで、彼の魅力を見せてくれる。リが現れることで、自分の人生を掴み直す人たち。ああ、ヒロインのユン・セリがそうだったと思うとき、これは、遠回りで本質的な「愛の不時着論」でもあることに気づかされる。

新潮社 波
2023年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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