空気のような喰べものは無いか

レビュー

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老妓抄

『老妓抄』

著者
岡本かの子 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784101040028
発売日
1950/05/02
価格
506円(税込)

空気のような喰べものは無いか

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「母」です

 ***

 スシが世界中で人気を呼ぶ今こそ、岡本かの子「鮨」を各国語に翻訳してほしいものだ。一つ一つ手で握ることの意義を味わい深く伝える逸品である。

 幼いころから、食べるのが苦痛でならない男児がいた。「体内へ、色、香、味のある塊団を入れると、何か身が穢れるような気がした」。よほどの潔癖症だったのか。それとも、現世に在ること自体に堪えられない気持ちを抱いていたのか。「空気のような喰べものは無いか」と願っている。

 食べられるのは「玉子と浅草海苔」程度。学校にあがっても体はやせていくばかり。母親としてはいたたまれない。ついに一計を案じ、縁側に坐らせる。そして息子一人のために鮨をこしらえ始める。

 そもそも息子は「母親以外の女の手が触れたものと思う途端に、胃嚢が不意に逆に絞り上げられ」るというたちだった。女中や飯炊き婆さんの手が加わっているともうだめなのだ。つまりこれは究極の甘えん坊の物語ともいえる。母は男児の眼前に「薔薇いろの掌」を差し出し、自分以外の誰も触れていないと念を押しながら、飯を握る。鮨がもたらすのは母子差し向かい、二人きりの世界の甘美さなのだった。

 かの子は一人息子・太郎にとってそんな理想の母ではなかったらしい。とはいえパリで絵画修行中の息子に宛てた手紙には、太郎会いたしの切願が迸り出ている。結局六年以上も会えないまま、「鮨」を発表してまもなく、かの子は49歳で病没した。

新潮社 週刊新潮
2023年5月25日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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