空気のような喰べものは無いか
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「母」です
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スシが世界中で人気を呼ぶ今こそ、岡本かの子の「鮨」を各国語に翻訳してほしいものだ。一つ一つ手で握ることの意義を味わい深く伝える逸品である。
幼いころから、食べるのが苦痛でならない男児がいた。「体内へ、色、香、味のある塊団を入れると、何か身が穢れるような気がした」。よほどの潔癖症だったのか。それとも、現世に在ること自体に堪えられない気持ちを抱いていたのか。「空気のような喰べものは無いか」と願っている。
食べられるのは「玉子と浅草海苔」程度。学校にあがっても体はやせていくばかり。母親としてはいたたまれない。ついに一計を案じ、縁側に坐らせる。そして息子一人のために鮨をこしらえ始める。
そもそも息子は「母親以外の女の手が触れたものと思う途端に、胃嚢が不意に逆に絞り上げられ」るというたちだった。女中や飯炊き婆さんの手が加わっているともうだめなのだ。つまりこれは究極の甘えん坊の物語ともいえる。母は男児の眼前に「薔薇いろの掌」を差し出し、自分以外の誰も触れていないと念を押しながら、飯を握る。鮨がもたらすのは母子差し向かい、二人きりの世界の甘美さなのだった。
かの子は一人息子・太郎にとってそんな理想の母ではなかったらしい。とはいえパリで絵画修行中の息子に宛てた手紙には、太郎会いたしの切願が迸り出ている。結局六年以上も会えないまま、「鮨」を発表してまもなく、かの子は49歳で病没した。