私の郷里柳河は水郷である。
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「望郷」です
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望郷の念、故郷を思う気持はいうまでもなく故郷を離れた出郷者のものだ。
近代の日本は首都である東京を中心とする社会になった。地方の若い世代の多くは東京をめざした。そこで出郷者には、生まれ育った故郷への思いが強まる。
明治十八年、福岡県の柳河(現在の表記は川だがここでは河に)に生まれた北原白秋は明治三十七年、十九歳の時に文学を志し、東京に出た。父親の反対があったから家出同然だった。
そして明治四十四年、詩集『思ひ出』を出版した。題名があらわすように故郷の柳河への追慕の書である。
とりわけ序文「わが生ひたち」は過ぎ去った故郷での子ども時代を、失われたものとして語り、大きな反響を呼んだ。
近代文学のなかで故郷で過した子ども時代を語った早い例だろう。
「私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである」という文章はとくに知られる。
掘割の多い水の町は、緑に恵まれ、かつては水運で栄えたが、近代になると徐々にすたれてゆく。
白秋の実家、酒の問屋も大火にあい没落する。その次第に衰退してゆく町にこそ白秋は、たそがれ時の詩情というべき静かな美しさを見てゆく。
日露戦争で日本がなんとか国力を整え、それまでの富国強兵、殖産興業と前ばかり向いていた時代にひと休みした。
その時、昔を振返る余裕が生まれ、『思ひ出』へと人の心がゆらいでいった。