『犯罪へ至る心理 エティエンヌ・ド・グレーフの思想と人生』梅澤礼著

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犯罪へ至る心理

『犯罪へ至る心理』

著者
梅澤礼 [著]
出版社
光文社
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784334101343
発売日
2023/11/15
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『犯罪へ至る心理 エティエンヌ・ド・グレーフの思想と人生』梅澤礼著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

人の弱さ 寄り添い理解

 エティエンヌ・ド・グレーフ。東京大学図書館の蔵書検索システムでその著書を探しても、フランスで刊行された犯罪学の概説書に序文を寄せた例が、一冊出て来るだけである。一九二〇年代から六〇年代初頭に至るまで、精神医学・犯罪心理学の分野で活躍し、小説も手がけた、ベルギーの男性知識人。これまでベルギーの学界とのつながりが薄かったから、日本では知られていない名前だった。その生涯と仕事の概要を教えてくれる、本邦で初めての一冊である。

 活躍の初期に、修道院の敷地内で子供たちが聖母の出現を目撃したという出来事が起きる。その調査に関わったド・グレーフは、みずからカトリックの信仰を持ちながらも科学者の姿勢を貫いて、目撃証言が嘘(うそ)であると指摘した。そんな緊張関係に根ざした誠実さが、知識人としての生涯を特徴づけたように思われる。子供が未熟な存在だとか、嘘をつく打算とは無縁だとかいった決めつけを捨て、その言葉に耳を傾けて、人間として全体的に理解すること。そうした態度が、精神医療での患者との関わりにも、「殺人犯の心理」の理解にも生かされてゆく。

 ド・グレーフによれば、重大な殺人事件のうち、殺そうと考えて三時間以内に実行されているのは、三分の一以下にすぎない。自分が事件を起こすこともありうるというぼんやりした自覚から始まって、意志が明確に「結晶化」し、あるきっかけを受けて行動に至るまで、長ければ数年間にもわたる過程がある。その間に、語るところをよく聞く介助者がいるならば、犯罪に向かうことを止められるだろう。

 心の底では他者に対する共感を抱きながらも、同時に防衛本能に衝(つ)き動かされ、排除や攻撃の行動に走ってしまう、人間の複雑さと弱さ。それを見つめ、個別の人によりそうところから、治療や法実務を考える。そうした方法は、社会における激しい対立や戦争が渦巻く現代に、いっそう重要な意味をもっている。(光文社新書 990円)

読売新聞
2024年2月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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