『タイ飯、沼。』
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『タイ飯(めし)、沼。』高田胤臣著
[レビュアー] 池澤春菜(声優・作家・書評家)
多様・複雑な食 奥深くへ
タイに留学していたことがある。高校生の時。でもわたしがいたのは南部の端っこ、マレーシアとの国境の町。斧(おの)の形に例えられるタイの、柄の先端部分だ。だからずいぶん食生活も違った。トムヤムクンは家では出てこなかったし、鶏肉はグリルではなく揚げてあるものだったし、朝ご飯で一番好きなのはインド風のカレーソースにつけて食べるローティー、カブトガニも揚げたアリも食べた。
日本と同じように南北に長いタイには、多種多様なその地方ごとの食材や食文化がある。
一筋縄ではいかない豊かで複雑なタイ料理、だからまぁこの厚みになるのもわかるけれど……実に七百二十三頁(ページ)。この厚みいっぱいに、タイ料理に対する筆者の愛と知識、経験が詰まっている。
例えば日本で一番有名なタイ料理の一つ、トムヤムクン。材料のプリック(唐辛子)の説明などを交えながら九頁、その後ココナツミルクの鶏肉スープ、トムカー・ガイに進み、それからもう一つのスープとも言えるゲーン、ココナツミルクの蒸し物ホーモック、酸味の利いたスープ、ゲーン・ソムへと瞬く間にタイ料理の奥へと進んでいく。ほうほう、と鼻先を引かれて読み進め、気がつけばもうどっぷり沼の中。二〇〇二年からタイに住む筆者が見たタイ料理の裏と表。知れば知るほど食べたくなる。
郷愁と食欲に導かれて七百二十三頁読み切り、思い出した料理がある。ご飯の上にカリカリの目玉焼きを載せナムプラーをかけたもの。
ホームステイネグレクトを受けていたわたしは、ご飯を食べさせて貰(もら)えないことが多かった。お腹(なか)を空(す)かせていると、中学生くらいの出稼ぎのメイドさんが手早く目玉焼きご飯を作ってくれる。料理とも呼べない賄い飯が、何よりのご馳(ち)走(そう)だった。言葉も通じない二人が、台所の隅でこそこそと食べたあの目玉焼きご飯こそが、わたしにとっては一番のタイ料理だったなぁ。(晶文社、3520円)