「私の見るところ、君は、自分自身が特段優れた人間だとは思っていない。まだ何も知らないただの若者だ、と自覚している。だから年長者の言うことはちゃんと聞くし、与えられたルールはきちんと守る」
 高野さんはウンウンと頷いて、それからキュッと(擬音にするとそうなる)俺のほうを見て言った。
「ただ、自分の持つ思考の体系については、他人のそれよりも優れている、と思っている。キリスト教の宣教師がどれだけ大変な目に遭っても、自分の神は至高の存在だと信じていたようにね。そういう根本が揺るぎないから、わざわざ自分の枝葉を揺さぶってみようとする。信じもしない幽霊の話に飛び込んだりしてね」
「俺、褒められてます?」
「もちろん。ただ、そうやって自分を揺さぶる行為は、根本のゆるい人間からすると、見下されていると感じるだろうね」
「どう直すべきだと思います?」
「直す、というのとは違うかな。…谷原くん、身長はどのくらい?」
「174センチです。入学時の健康診断の時点では」
「あーそうか、大学1年の男子ってまだ伸びるか」
「伸びる人はそうですね。中学で止まるやつもいましたが」
「日本人男性の平均はいくらだっけ?」
「171です」
「なんでスッと出てくるんだよ」
「そういうのって覚えませんか?」
「そうか、まあ、それはともかくだ。つまり君は普通に立って歩いているだけで、半分以上の男とほぼ全部の女、つまり8割方の人間を見下してるわけだ。そういう差はどうしたって世の中にはある。でも、君は真面目で良い子だから、他人を見下してはいけないと教わったら、しゃがんで目線を相手に合わせてしまう。それでは『見下した』という事実を強調するだけなのにね。思考のあり方についても同じだ」
 その言葉を聞いて、俺は無意識に猫背になっていたことに気づいた。なるべく不自然のないように、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「ずいぶん見下しについて詳しいですね」
「総合大学の文学系なんてのは、まあ見下され慣れてるんだよ。慣れたくもないけどね。まず受験の段階からして、法学部や経済学部でない理由を親だの先生だのに説明しないといけない。その基準はたいてい偏差値とか就職だ。関心ある分野が文学部なので、といっても通じない。学問への関心で学部を選ぶなんて発想がない人は多いんだ。笑えるよね。『作家を目指してるんですか?』とか、『良いところのお嬢様なんですね』とか言われる。4年で卒業するならいいけど、私くらい長居すると見下しソムリエになってくる。その観点でいうと、君は偏差値とか就職とかいう実用的なレベルでなくて、思考のあり方として学問に序列をつけている、ように見える」
 野菜生活にアルコールが入っていたのか、と思うような勢いで高野さんは喋り続けた。この人がやたらと笑うのは、なるべく日々の厄介事を笑い飛ばせるように訓練した後天的な性質なのではないか、とふと思えた。
「君にとっては自分の思考の枠が一番巨大だから、『相手の思考を枠内にどう収納するか』という形式で他人を理解しているんだよ。すべての出来事は物理現象の一形態だから、物理をやれば世界のすべてを理解できる、という感じのあれだ。人の心も脳の生理的反応であり、つまり物理現象の一種だ、といったように」
「自分がそんなに枠が大きいなんて思っていませんよ、俺は」と言おうとしたけれど、それも結局はしゃがんで目線を合わせる行為に思えた。だからこう言った。「物理については、そうじゃないですか? 客観的事実として脳は物理現象ですし」
「そういうのも相対的な問題だよ」
「そうですか?」
「物理というのはあくまで経験的な観測事実をもとに作るわけだろう。どんな観測データも最終的に人間がそれを見ることで、理論が構築されていくわけだし。つまり、あらゆる物理現象が人の心の見ている幻影だとしたら、物理よりも人の心のほうが、上位にあると言える」
「もしそうだとしても、それは物理にとって何の問題もないですよ。ゲームだってそうじゃないですか。それが液晶に映る幻影だとみんな知っていますが、みんなその世界の法則を真剣に解明し、効率的な攻略戦略を考えるわけですから」
 話が壮大に逸れてきたけれど、俺にはこちらの方が話しやすかった。俺自身について言及しなくて済むからだ。この人と自分のあり方について話そうとすると、どこか心臓が軋むような音が聞こえるのだ。
「ああ、そうか、君が霊媒師のバイトをするのは、そういう考え方か」と高野さんは頷いた。「ようやく腑に落ちた。君は『幽霊がいる世界』という設定の謎解きゲームをやっているんだ」

(つづく)