小公女たちのしあわせレシピ

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 ムシャムシャには、メアリさんが亡くなっただなんてわからない。ただ、来なくなったことはわかる。どうして来てくれないのかと、捨てられたかのように感じながら、それでも毎日待っていたのだろう。
 つぐみは、そろりとムシャムシャに近づいた。ぴったりと体を寄せているメアリさんのキャリーバッグには、彼女の匂いが残っているのだろうか。
「ごめんね、メアリさんじゃなくて」
 そばにしゃがみ、体をそっと撫でると、ムシャムシャは鼻をヒクヒク動かした。
「きみさ、“ホテルのはな”の景太けいたの妹だろ?」
 彼はまた、思いがけないことを言った。
野花のはな景太とは、小学校の同級生だったし、ホテルの裏の家にも遊びに行ったことがあるよ」
「えっ、それじゃあ、わたしとも会ってたんですか?」
「景太のおばあさんがお菓子を出してくれると、きみもいっしょに食べてたっけ」
 兄の景太は三歳年上だが、せいぜい低学年だったつぐみにはおぼえがない。
「そんな小さいころに会っただけで、よくおぼえてますね」
「まったく変わってないから、すぐにわかった。まん丸い顔も、目尻が下がり気味なのも」
 あんまりだが的確な指摘に、つぐみは何も言えない。それで最初から、なんとなく馴れ馴れしい話し方なのだとだけ納得する。少々不愉快なのが顔に出たからか、彼はクスッと笑ったようだった。
「景太に似てるし」
「えっ、絶対に似てません」
「似てるって。絶対悪い人じゃないって雰囲気」
 目尻の下がったタヌキ顔、と兄妹そろってよく言われたのが、つぐみには不本意だ。
「ええと、名前、鳥みたいな?」
「つぐみです。野花つぐみ」
「ああそうそう、つぐみさんね。おれは皆川蒼みながわそう。小五の時よそへ引っ越して転校したし、こっちへ戻ってきたのが六年前だし、おぼえてなくても無理はないけどな」
 その間、この家はずっとここにあったのだろう。昔から動物病院をやっていたのだろうか。待合室の雰囲気も、受付のカウンターも、診察室だろうドアも、古めかしい。
 商店街へ来ることはあっても、路地裏にはめったに入らなかったから、つぐみの記憶にはない。駅前に大きなスーパーやファッションビルができてからは、なおさら来なくなったため、動物病院があったかどうかもわからなかった。
「キャリーバッグ、しばらくうちであずからせてくれないか。メアリさんの遺品だから、市役所へ持っていくところだったんだろ? 役所にいる知り合いに、おれから話しておくから」
 ムシャムシャからキャリーバッグを取り上げるのは難しそうだ。離れたくなさそうに、のしかかっている。
「はい。それじゃあ、お願いします」
 ちらりとつぐみを一瞥したムシャムシャは、安心したかのように見えた。
「中身、どうしたんだろうな。これ、空っぽだよな」
 彼も、持ったときに気づいたのだろう。中身のことは、つぐみも気になっていた。
「もともと空っぽってことはないですよね?」
「いつも重そうに引きずってたからなあ。それにメアリさん、ここには過去のすべてが詰まってるって言ってたんだ」
 けっして大きくはないキャリーバッグの中身が、メアリさんの過去、七十五年の人生のすべてだったのだろうか。家を持たない彼女にとっては、思い出の品だって持ち歩けるぶんだけだったことだろう。
「きみは、見たことない?」
「いえ、見たことないです」
「そっか」
 彼は考え込んだのかどうか、ともかく会話が途切れたので、つぐみは帰ろうとお辞儀をした。それじゃあ、と引き戸を開けたところで、彼の声が背後に届いた。
「本が入ってたんだ。一度だけ、ちらっと見えたことがあって、本がいっぱい入ってたのにな」