【試し読み】『最果ての泥徒』②
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2019年に日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビューした高丘哲次さん。デビュー作の刊行から約3年半。膨大な数の文献収集にはじまり、幾度となく改稿を重ねた最新作『最果ての泥徒』は、壮大な世界観や史実を描くうえでのディティール、白熱のアクションなど、前作を更にスケールアップさせた入魂の1作が刊行されました。本書の冒頭部分を期間限定で毎日試し読み公開。
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マヤには、喜びの余韻に浸っている余裕はなかった。
再びホールクロックに目を留めると、はっと息を飲んだ。ものの数分の出来事のように感じていたが二時間余りが過ぎていた。弾かれたように飛び上がり、その勢いのままに部屋から飛び出してゆく。
しばらくして部屋に戻ってきたマヤは、襟元が細かなフリルで飾られた白いドレスに着替えていた。そこで、スタルィが一糸まとわぬ姿であることに気付いたが、お仕着せを見繕っている時間はない。
「今日のところは、これで我慢してちょうだい」
床に広げられていた泥だらけのシーツをしぶしぶと巻きつけ、
「とにかく付いて来て」
スタルィの手を急くように引いた。
部屋を出ると、しんとした薄暗い廊下が続いていた。建物の大きさに比して使用人が少ないカロニムス家の屋敷は、常に静けさと共にあった。たどたどしい足取りのスタルィを支えながら正面階段を下り、玄関を抜ける。
目の前に広がったのは、花と芝生とで作られた幾何学模様だった。多角形の花壇にそれぞれ色の異なった花が植え付けられ、隙間なく前庭を埋め尽くしていた。六角形に切り取られた芝生に置かれた一台のテーブルを目指して歩を進めてゆく。
テーブルの周囲を行き交っているのは、ただの使用人ではなかった。胴体から伸びた四本の腕を器用に使い、料理が載せられたトレイと銀製のカトラリーとを同時に運んでいる。「歪な泥徒」と呼ばれる泥徒だ。それら人と異なった形象の泥徒を創り出せるのは、カロニムス家の家長だけだった。
歪な泥徒たちの間を抜けテーブルに近付いてゆくと、からかうような声が飛んできた。
「ずいぶん、おめかしに時間が掛かったようだね」
髭のないつるりとした顔に、僅かに癖のある黒髪を横に流した紳士が、ひらひらと手を振っている。彼の名は、イグナツ・カロニムス。マヤの父親であり、カロニムス家の家長だ。
テーブルには、イグナツの徒弟たちの姿もあった。
セルゲイ・ザハロフ。
有馬行長。
ギャリー・ロッサム。
普段なら、師匠と徒弟が食事を共にすることはないが、今日この日―マヤの誕生日だけは特別だった。ボロ布を巻き付けた泥徒を連れてきたマヤに、彼らは三者三様の眼差しを向けていた。
ロッサムは、あからさまに不審げな表情を浮かべていた。彼は尖筆師となる以前、米国で独り人工生命の研究に取り組んでいたという。霊的な事象に理解の低い彼の地で批判を受け続けるうち、猜疑心が養われたようだった。
三人の中でもっとも年嵩である日本人の有馬は、穏やかな笑みを浮かべていた。彼だけは、前々からマヤの密かな試みを察しており、必要となる道具や文献を手渡してくれたことも、一度や二度ではない。
そしてただ一人、ザハロフからはなんら反応が見られなかった。真っ直ぐに切り揃えられた前髪から覗く薄灰色の瞳は、マヤたちをじっと観察しているようでもあり、背後に広がる風景に漠とした視線を送っているだけのようでもあった。
テーブルの傍らに着いたマヤは、固く手を握りしめた。
「遅くなって、申し訳ありません」
自分の誕生日だというのに、浮き立つ様子は微塵もなかった。
そこで彼女の椅子をゆっくりと引き、着席を促した者があった。白髪をたっぷりのオイルで後ろに撫でつけた壮年男性は、家令のトマシュだ。
「お待ちしておりました。新しいお召し物、たいへん良くお似合いです」
そう言うと、ぎこちなく片目をつぶってみせた。
マヤは僅かに表情を和らげ、腰を落とした。
「親愛なるマヤ」
イグナツがグラスを掲げる。
「きみの十二回目の誕生日を、こうして仲間たちと祝えることができるのは何よりの幸せだ。さあ、始めるとしよう」
「待ってください!」