【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞受賞&デビュー作『約束の果て』①

『最果ての泥徒』刊行記念特集

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最新作『最果ての泥徒ゴーレム』が話題の高丘哲次さん。2019年に「日本ファンタジーノベル大賞」を受賞したデビュー作『約束の果て 黒と紫の国』の冒頭部分を期間限定で毎日試し読み公開。選考委員の恩田陸さん、森見登美彦さん、萩尾望都さんに絶賛された、史伝に存在しない二つの国を巡る、空前絶後のボーイ・ミーツ・ガールを堪能ください。

約束の果て

約束の果て

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 疾風が野を駆けた。
 き止められていた時が、いま流れ始めた。
 吹き抜ける風は、私の体を激しく打ちながら過ぎ去ってゆく。
 ムクドリの大群が飛び立つように、野を埋め尽くす紫の花びらが空に舞い上がった。無数の花びらで視界が紫一色に染まってゆく。
 すみれの花々はこの瞬間を待っていたのだろう。
 大地に根をはり、五千年もの間。
 その紫に黒が混ざりだす。
 文字だ。
 私が手にしている古びた紙の束は、吹き付ける風によって千々に砕かれていった。そこにつづられていた数多あまたの言葉たちは、意味を喪失しながら文節に分かたれ、さらに個々の文字だけとなって花びらと混ざり合ってゆく。
 文字が、物語が、どこか遠くへ飛びさろうとしている。
 偽史と小説によって編まれた真の歴史は、ようやく終わりへ辿たどり着こうとしている。遠古のごしゅうてられたこうなんという二国の結末を、私は運んできたのだ。
 長い旅だった。
 残された五メートルの旅路を終えるまでに、五千と七十年もの月日が費やされた。
 風は、まだやむ気配はなかった。
 それどころかいっそう強さを増し、菫の花々は遠い空までを鮮やかにいろどってゆく。私が手にした紙の束は完全に砕け、風に乗り花びらを追った。
 黒が舞っている。
 紫に包まれながら。
 壙と南をべた二人の王が辿った数奇な歴史が、この光景を作り上げたのだ。彼らが歩んだ道のりを、私は一条の物語として思い起こす。その果てに私がいるなら、起点は彼となるだろう。
 伍州の考古学研究者であったりょうせいかが、この物語を辿りはじめたのだ。

第一章 旅立ちの諸相

 梁斉河りょうせいかは、口の中に土の味がしてようやく自分が転んでしまったことに気付いた。
「慣れないことはするべきではないな」
 一寸先も見えぬ暗闇くらやみの中、彼は独りつぶやいた。
 全力で駆けたのは、いったい何時いつ以来だろう。考えてみれば、伍州ごしゅう科学院に所属してから運動らしいものをしたことすらなかった。こんな夜道を、全力で走ろうというのが無謀なのだ。
 斉河は横たわった姿勢のまま、右手を上着の内ポケットに差し込んだ。指の先で硬質な感触を確かめると、安堵あんどの吐息をもらした。
 同時に、いっそくしてしまえば楽だったのにという考えもよぎった。
 この古びた青銅器を手にしたことで、苦労して手に入れた伍州科学院考古学研究所員という立場を失おうとしている。自分だけでなく、妻や幼い息子にまで迷惑をかけることにもなる。
 斉河は、闇のなかで首を振った。
 この青銅器が、所長の虚栄心のために利用されるのは許せなかった。感情の問題ではなく、明らかに間違っているという確信があった。そして実に遺憾であったが、正すことができるのは自分しかいないのだ。
「考えても仕方ない」
 斉河は地面に両手をつき、上体を起こした。
 地下の収蔵棚から、この青銅器が持ち出されたことが発覚するのは、まだ先になるだろう。内戦により研究員の数は足りておらず、収蔵品の管理はずさんになっている。あのうかつな所長が、すぐに勘付くとは思えなかった。
 それまでに、家族をつれて安全な場所へと逃れなくてはならない。
「道はあるはずだ」
 斉河はひざについた土を払い落とすと、暗闇のなかへ消えゆく道の先をじっと見据え、再び全力で走り出した。

(つづく)