【試し読み】『最果ての泥徒』③
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2019年に日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビューした高丘哲次さん。デビュー作の刊行から約3年半。膨大な数の文献収集にはじまり、幾度となく改稿を重ねた最新作『最果ての泥徒』は、壮大な世界観や史実を描くうえでのディティール、白熱のアクションなど、前作を更にスケールアップさせた入魂の1作が刊行されました。本書の冒頭部分を期間限定で毎日試し読み公開。
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マヤが暮らすレンカフ自由都市は、「レンカフ市及びそれに付随する三二〇町村から成る完全に自由にして独立したレンカフ共和国」という国号を持つ、小さな都市国家である。だが実際のところ、そこに「自由」はなく、「独立」していたとさえ言い難かった。
この都市国家は、ウィーン会議の机上にて産声を上げた。
フランス革命によって荒廃したヨーロッパに正統的な秩序を取り戻すべく開催されたこの会議において、かつて波蘭と呼ばれていた地域の大半は、露国皇帝の統治下に置かれることになった。しかし、レンカフ市などいくつかの都市群の扱いについては周辺国の意見が割れ、六ヶ月以上にもわたり議論が続くこととなる。
踊り続ける会議に終焉を齎したのは、ナポレオン・ボナパルトだった。彼がエルバ島から脱出したという報が届くと、各国から派遣された全権団はにわかにざわめきたった。そこで、レンカフ市に国境を接する三つの帝国、すなわち露国、墺国、普国がそそくさと要領をまとめ、妥協の産物として世に現れたのがレンカフ自由都市である。
被保護国であるレンカフ自由都市は、何事を決めるにも保護国となった三帝国の同意が必要とされた。この国の意思決定機関である国民議会は代表者会議と元老院の二院から成るが、全会一致制を取る後者に高等弁務官が送り込まれたのだ。
大陸の盟主たちが執着したのは、三十万人ほどの人口しか持たない都市国家そのものではなく、この都市特有の産業―つまり、泥徒製造業であることは言うまでもない。
その泥徒創造の技術を、レンカフ自由都市に齎したのがカロニムス家である。
カロニムス家は人類の歴史のなかで最も古い一族のひとつとされ、その祖であるメシュラムの名は、書記官エズラを補佐した者として『ネヘミヤ記』に残されている。十二世紀末、マインツにあったカロニムス家は十字軍による迫害の対象となり、その一部が波蘭王の庇護を求めてレンカフ市に逃れてきた。
マヤは、その栄えある一族の末裔だった。