【試し読み】『最果ての泥徒』④

『最果ての泥徒』刊行記念特集

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2019年に日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビューした高丘哲次さん。デビュー作の刊行から約3年半。膨大な数の文献収集にはじまり、幾度となく改稿を重ねた最新作『最果ての泥徒ゴーレム』は、壮大な世界観や史実を描くうえでのディティール、白熱のアクションなど、前作を更にスケールアップさせた入魂の1作が刊行されました。本書の冒頭部分を期間限定で毎日試し読み公開。

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最果ての泥徒

最果ての泥徒

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 初等学校の授業は算術や地理など多岐に及んだが、中でも多くの時間が割かれていたのが語学である。被保護国という位置付けにあるこの国では、保護国の公用語である独国語、露国語が必修とされていた。
 露国の衛星国とされた波蘭ポーランド立憲王国では、自国語の使用が禁じられたという。それと比べれば、語学の授業が多くなる程度で済んだことを幸いに思うべきかもしれない。
 とはいえ、生徒たちが相応の苦労を強いられているのは確かだった。皆絶望そのものの表情で、板書された露国語の格変化の型を見つめている。その傍ら、マヤは時おり襲ってくる睡魔と戦い続けていた。
 尖筆師という職業は言語の素養が求められる。泥徒の礎版に刻まれる秘律文は、しゅ原人間アントロポスアダム・カドモンの創造に用いた原初の言葉を模倣したもの。多様な言語体系が入り混じったそれを習得するため、幼い頃から多言語を叩き込まれていた。
 退屈な授業が続く一方、マヤが心待ちにしていたのは「泥徒教理ゴーレム・ドクトリニ」だ。欧州では近年とみに泥徒の需要が拡大し、常に尖筆師は人手不足の状態。それを解消するため、初等教育の段階から基礎的な理論や歴史が教え込まれるようになっていた。独学でその方法を身に着けたマヤにとって、体系的な知識を得られるのは有り難かった。
 それゆえ、その授業でひと騒動を起こしてしまったのは、彼女の本意ではなかったことだろう。
「諸君らも、この図形を目にするのは初めてではないだろうが」
 全身黒ずくめの教師イサーク・ブラウは、胸まで伸びた白い髭をしごきながら切り出した。
 彼が指すのは黒板に貼られた「生命の木」と呼ばれる図形。十種類の数枝セフィラによって構成されるそれは、一本の樹木の観を呈している。
 人間を支配する世界の有機的構造を象徴するこの図形は、カバラーの聖典のひとつ『ゾーハル』の編纂以前から存在することは間違いなく、人類の歴史の中で最も古い教義のひとつとされていた。
 とはいえ、近年では「生命の木」は通俗的な物語の小道具としても用いられ、神秘主義者ではなくともその存在を知らぬ者はない。にわかにさざめき立った教室に、教師は大きく咳払いをする。
「この図をただ見たことがあるというのと、理解することの間には、天と地ほどの開きがある。いかに優れた尖筆師といえど生命の木が象徴するものを完全に理解したと断言できる者はないのだからな」
 苛立つようなその口調に、生徒たちは慌てて口を閉ざした。静まり返った教室をじろりと眺め回し、ブラウは続ける。
「この図形は観念的な象徴ではなく、泥徒を創るための設計図と見做みなすべきものだ。尖筆師という仕事は、秘律文を使って泥徒の礎版に生命の木を描くことと言い換えることもできる」
 そこで教師は言葉を止め、「では、なぜ精神世界の構造を示すとされる生命の木が、泥徒の設計図となり得るのか。誰か説明できる者は?」
 マヤはそれに答えるべきか惑うように、机の下でもじもじと手を動かす。
 そうする間に、天井へと素早く腕を衝き上げた少年があった。