珀嫗に率いられた愚鈍なる一族は、その生活も獣とさほど変わらぬものであった。幽谷の岩肌を掘った壙を住居とする彼らは、自生する果実を採取し、捕らえた獣の肉を喰らい、細々と露命を繫いでいた。
螞九は十三の齢を過ぎた頃、唐突に現れた岐路に足を踏み入れた。それは伍州の王に繫がる道であった。
「今から宴礼射儀に向かう。伴をせよ」
小楢に実る団栗をあらかた採り尽くした折のこと、珀嫗は前触れもなくそう言った。
螞九は、ただ己の頭を上下させた。宴礼射儀が何たるか知らなかったが、意外にも思わなかった。珀嫗の言葉を疑うという習慣を持たなかった為であろう。
かくして、珀嫗と螞九を含む五人の子らは壙を発った。そのとき螞九の他に伴をした者の名は、螞三、螞七、螞三十二、螞六十五であったと伝えられている。
珀嫗たちの一行は窮山の淵を縫うようにして進み、一路南を目指した。数日が過ぎると、周囲を城塞のように取り巻いていた峻峰は、穏やかな丘陵へと変わった。
そこから日ならずして、螞九の視界は開けた。
なだらかな大地がどこまでも続き、果てに引かれた一本の線により、天と地が分かたれていた。まばらに低草が茂るだけの荒涼としたその風景に、螞九の目は奪われた。自身の居る世界の広さに、打ちのめされつつも心惹かれた。
平地に入ってからというもの、珀嫗は落ち着きなく辺りに首を巡らせてばかりいる。螞九が訝るように老女の視線を追うと、遠くに見慣れぬ獣を見つけた。その獣を馬と呼ぶことを、まだ彼は知らない。
珀嫗は草原に現れた馬に向かって大きく手を振った。
「禺奇よ、待ちわびたぞ」
馬の胸部は皮帯で繫がれ、後方に車を牽いていた。車上にある男は胸まである長い鬚を揺らし、珀嫗に笑顔を向けた。手綱を鳴らして馬首を巡らせると、ゆっくりこちらに近付いてくる。彼の後ろには、馬の列が長く続いていた。
禺奇と呼ばれた男は、節をつけて歌うように応えた。
「酒、干肉に塩辛、お望みのものは何でも禺奇にご用命あれ」
当時の伍州には、定住する土地を持たず商いをしながら旅に暮らす者たちがあった。
螞九が他の部族に遭遇するのは初めてのことであったが、その出会いは快なる感情を彼に与えなかった。禺奇に貼り付いた笑顔は不気味に映った。何がおかしくて笑っているのか螞九には分からなかった。
珀嫗がずっと探していたのは、禺奇たちのことであった。慌てたように傍に駆け寄ると、馬の背に担がれた行李を覗き込んでゆく。
「なんだ、酒はこれだけしかないのか。少し品揃えが悪いのではないか」
文句混じりに物色を続け、珀嫗の腕には抱えきれぬほどの食料が乗せられてゆく。しばらくして納得したように頷くと、禺奇に向かって小袋を差し出した。
「では御代だ」
禺奇は結ってあった紐をほどき、袋の中身を手のひらに受けた。
「これは、なんとも素晴らしい」
彼はそのひとつを指先でつまんで、日に翳した。
禺奇が眺めるのは――石塊である。
螞九は目を剝いた。珀嫗は食料と引き換えに、何ら用を成さぬ石を渡したのである。壙を掘り広げる際、淡翠の石が採れることがある。螞九たちが見向きもしないその石を、珀嫗だけは慌てて懐へと仕舞い込んでいたことを思い出した。
螞九は、あまりの不可解さに気分まで悪くなってきた。腹を満たすことができる食料と、使い物にならぬ石塊とを交換して何の意味があるのか。禺奇という者は、石を眺めて恍惚とした表情を浮かべ続けている。
「今後とも、どうぞご贔屓に」
禺奇は再び作り物めいた笑顔を向けると、原野の彼方へと去っていった。
その姿が消えても、螞九の裡に生じた違和感は腹を壊した後の鈍痛のように居座り続けた。
(つづく)