【試し読み】最旬作家・寺地はるな 心の傷が産んだサスペンス『わたしたちに翼はいらない』①

感涙! 最旬作家・寺地はるな特集

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他人を殺す。自分を殺す。どちらにしてもその一歩を踏み出すのは意外とたやすい―。最旬の注目度No.1作家・寺地はるなさんが描く長篇『わたしたちに翼はいらない』は、「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらすまでのサスペンス。同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らすシングルマザー・朱音、離婚したくてもできない専業主婦・莉子、自殺を考える独身男性・園田は、いじめ、ママ友マウント、モラハラ夫、母親の支配など心の傷を抱えています。そしてやがて…。本日から5日連続で本作の一部を特別公開いたします。

第一章

 この十五階建てのマンションができたのは、たしか園田そのだが小学生の頃だった。あの頃はまだ、丈の高い建物はめずらしかった。街に突如出現した高層マンションについて、園田の祖父母は「大雨が降って洪水になったらあそこに避難させてもらえばいい」とか「明日見川の花火大会が見えるらしい」と話していた。ひとつの階に五室あるのだが、最上階は二室だけで、下の階より広くてルーフバルコニーがあるらしいと園田に教えたのも祖父か祖母のどちらかだった。
 小学生の園田はルーフバルコニーがどんなものなのか知らなかった。祖父にたずねると、屋上のようなものだと説明された。住人はそこで「くつろぐ」のだと。
 ビーチパラソルの下で白いチェアに寝そべっている女の姿が浮かんだ。水着姿で気怠けだるく雑誌をめくっている女。そんな場面を映画で観たことがあった。映画館に行ったわけではなくて、テレビで放送されていた。じっと見ていたら、三つ年下の弟が「あーりつ兄ちゃん、女の裸じろじろ見てる、うわー」と騒ぎ出した。園田が気色ばむとふたつ年上の兄が「お前らうるさい」と怒り出し、弟が反抗し、最終的に三人とも母に頭をはたかれた。
 恥ずかしかった。水着の女に目を奪われていた自分も「ルーフバルコニー」のない借家で母と、母の実父母である祖父母、兄と弟と自分がひしめきあうように暮らしていることも、兄と弟がさわいでいるあいだにいつも言葉を飲みこんでしまう自分も、ぜんぶ恥ずかしかった。
 その後マンションの前を通るたびに、弟の「うわー」が耳の奥で聞こえた。もうじゅうぶんだろう、おれはこの件でじゅうぶん恥ずかしがっただろうと自分に言い聞かせても、羞恥心はしつこくよみがえり、園田の耳を熱くした。
 パルスのお膝元、と呼ばれるこの街で、園田は生まれ育った。このあたりに住む年寄りはみんなパルスの上に「世界の」をつける。世界のパルス。自分の会社でもないのに、誇らしげにその名を口にする。園田の祖父母もそうだった。
 みなさん、大きな会社はぜんぶ東京にあると思っているでしょう、と言う担任の先生の声を今も覚えている。小学三年生の時だった。
「きみたちはパルスという、世界的に有名な電機メーカーの本社がある街に住んでいるんです。先生は高校生の時、アメリカのカリフォルニアというところで半年間ホームステイを経験しました。そのお家の居間には、パルスのテレビがありました。すごいことだと思いませんか?」
 先生は「お父さん、お母さんがパルスに勤めている子、手を挙げてみてください」と言った。数名の手が挙がった。「じゃあ、お父さんやお母さんがパルスに関係のあるお仕事をしているという人」という質問にはさらに多くの手が挙がった。園田は自分が手を挙げていいのかどうかよくわからず、下を向いていた。
 広大な敷地を持つパルスの本社は、地図で見ると市のちょうど中心部にある。それを取りかこむように、下請けや孫請けの会社や販売代理店が放射状に広がって位置している。そのうちのひとつが園田の父の勤め先で、やっていた仕事は「パルスに関係のある」といったたぐいのものなのだろうが、小学生の頃はそのことがよくわかっていなかった。父とはあまり話をしなかったから。