【試し読み】最旬作家・寺地はるな 心の傷が産んだサスペンス『わたしたちに翼はいらない』⑤

感涙! 最旬作家・寺地はるな特集

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他人を殺す。自分を殺す。どちらにしてもその一歩を踏み出すのは意外とたやすい―。最旬の注目度No.1作家・寺地はるなさんが描く長篇『わたしたちに翼はいらない』は、「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらすまでのサスペンス。同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らすシングルマザー・朱音、離婚したくてもできない専業主婦・莉子、自殺を考える独身男性・園田は、いじめ、ママ友マウント、モラハラ夫、母親の支配など心の傷を抱えています。そしてやがて…。本日から5日連続で本作の一部を特別公開いたします。

第二章

 離婚届の用紙を取りに行ったのは、宏明ではなく朱音だった。市役所の窓口で「離婚届を一枚ください」と、自分でも過剰に感じられるほどはっきりとした口調で頼んだにもかかわらず、カウンターの向こうの職員は「緑の紙」と濁した。用紙のある場所がわからなかったのか「緑の紙を一枚です」と他の職員に耳打ちしたり、引き出しを開けたり閉めたりして、用紙一枚を出すのにずいぶん手間取っていた。
「やっぱり、二枚ください」
 用紙を受け取ってから、同じくはっきりと言い放った。書き損じがあってはいけないと思ったのだ。離婚にまつわる一連の手続きを、遅滞ちたいなく、確実に遂行すいこうしたかった。
 決意は固かったが、その理由となると、とたんに説明が難しくなる。さいわい「なんで離婚したの?」と正面切って訊ねるような人は周囲にはいないが、なにかにつけて「この件について誰かに質問されたらなんと答えよう」と前もって考えるのは、朱音の昔からのくせだった。
 誰かにこう言われたら、こう返そう。いつも頭の中でシミュレーションを繰り返す。当意即妙の受け答えができるほど頭の回転がはやくないという自覚があるから、いつだって予行が必要なのだ。
 なんで化粧しないの? 興味ないから。
 なんで彼氏いないの? べつに欲しくないから。
「なんで離婚したの?」への回答は難しい。要約すると「好きではなくなったから」になるのだが、それでは脳内の「誰か」は納得してくれない。かならず「結婚って忍耐が必要なのよ」とか「ちょっと愛情が冷めたぐらいで、そんな」と食い下がる。