【試し読み】最旬作家 寺地はるな 「希望」を探すエール小説・新潮文庫版『希望のゆくえ』①
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弟の希望が放火犯の疑いがある女と姿を消したらしいと、母から連絡があった。僕は彼と交流があった人物に会いに行ったが、弟の印象はそれぞれまるで異なっていて――。弟はどういう人間だったのか。誰のために生きてきたのか。僕たちの声は、弟に届くのだろうか。それぞれの「希望」を探す優しいエールに満ちた本作の新潮文庫化を記念して、本日から5日連続で冒頭部分を特別公開いたします。
柳瀬誠実と弟の話
母から預かった弟の部屋の合鍵には、真珠がついていた。ほんものではない。真珠を模したビーズが数珠状に連なって、鍵の穴に通してある。いかにも素人の手芸じみたその数珠は、おそらく母の手によるものではないだろう。むろん弟でもない。ふたりともそんな趣味はないはずだと思ってから、そう断言できるほど彼らのことを知らないと気がついた。
「なにかあった時のための用心に合鍵を預かったのよ」
母はこちらがなにも訊ねていないうちから、妙に言い訳がましかった。「ほんとうよ」と幾度も念を押すので、嘘だとわかった。はやく会話を切り上げることに頭がいっぱいで、この稚拙な手芸品をつくったのが誰なのかということは結局聞きそびれてしまった。
たよりなく軽い模造真珠を手の中でもてあそびながら、誠実は弟の住むマンションに向かって歩いている。
昔から勘が良いとは言い難かった。そんなことにも気づかなかったの? などと周囲の人間にあきれた顔をされる機会も多い。けれども今朝ポケットの中でスマートフォンが振動しはじめた時、誠実の直感がはたらいた。電話をかけてきたのは自分の嫌いな相手に違いないということ。それから、厄介な用件だろうということ。
でもここでは電話に出られない。周囲をみまわし、無視を決めこんだ。ポケットから取り出して名前をたしかめることすらしなかった。電車の中で電話に出るのはマナー違反だ、と思うことで厄介ごとを先送りしたのだ。
朝の電車に乗るたび、子どもの頃に使っていたおもちゃ箱を思い出す。箱は透明なプラスチックの抽斗つきの、本来は「衣装ケース」と呼ばれる類のものだ。
玩具をぎゅうぎゅうに詰めこむと、薄いプラスチックの箱はたわんで不細工なかたちになった。毎度乱暴にしまうから、紙製の飛行機はひしゃげ、ロボットは傷だらけになった。そのことに奇妙な満足感をおぼえてもいた。どこかが損なわれることでようやく自分のものになったと実感できる。
電車に乗りこむ時、たまに視線を上げて確かめる。人間をここに押しこんで、これでお前らはぜんぶ俺のものだと主張する大きな手がそこにあるのではないかという気がしてならない。