【試し読み】最旬作家 寺地はるな 「希望」を探すエール小説・新潮文庫版『希望のゆくえ』②

感涙! 最旬作家・寺地はるな特集

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弟の希望のぞむが放火犯の疑いがある女と姿を消したらしいと、母から連絡があった。僕は彼と交流があった人物に会いに行ったが、弟の印象はそれぞれまるで異なっていて―。弟はどういう人間だったのか。誰のために生きてきたのか。僕たちの声は、弟に届くのだろうか。それぞれの「希望きぼう」を探す優しいエールに満ちた本作の新潮文庫化を記念して、本日から5日連続で冒頭部分を特別公開いたします。

 かけおち、に続いて「心中」という穏やかでない単語が浮かんだが、玄関には女物の靴はない。明るくなった玄関にはちりひとつ落ちていなかった。まだ新しいスニーカーが一足、きちんと端に寄せてそろえられている。
 間取りで言えば1LDKといったところか。きちんと片付いてはいるがインテリアにはこだわりがないらしく、どこにでもあるような家具が並んでいる。ソファーもベッドも、量販店で買ったものだろう。皿一枚、ティッシュケース一個にいたるまで妻のこだわりに満ちた自分の家を思い出して、ふいに喉がふさがれたようになる。
 台所に入ったら甘い香りが濃くなった。流し台に置かれた紙袋をのぞきこんで、そこに桃が入っていることをたしかめる。すでにいたみはじめているのか、ところどころ黒ずんでいた。
 流しには飲み残しのコーヒーが残ったマグカップがひとつ置かれている。生活の名残なごりはあるが、昨日も一昨日もこの部屋のあるじは帰っていないのだろう。だって、空気が淀んでいる。
 なにか水音のようなものが聞こえた気がして、浴室に向かう。
 音はしかし、誠実の気のせいだったらしい。乾ききった浴室はしんとして薄暗い。バスタオルが一枚、洗濯機にほうりこまれているのを確認した。
 部屋に戻って、棚の抽斗のひとつがすこし開いているのに気づいた。整然とした部屋の中で、それは妙に目立った。
 重要なものをまとめておく抽斗だったのだろう。部屋の契約書やら、保険証券が入っている。不自然な隙間すきまが空いているのは、ここからなにかが取り出されたことを意味している。おそらく通帳とか、そういった類のもの。
 クローゼットを開けてみる。がらんとして見えるが、洋服類が持ち出されたのか、もともとの手持ちの服が少ないのかは判断できかねる。ただ希望が当面ここに戻る気がないことは間違いなかった。マグカップも桃もバスタオルも「うっかり忘れていた」というよりはうち捨てられたように見える。この部屋まるごと、持ち主に見捨てられたのだ。
 冷蔵庫の扉に古い家族写真がられているのが見えた。誠実のアルバムにも同じ写真があるので、離れた位置からもそれとわかる。