【試し読み】最旬作家・寺地はるな 心の傷が産んだサスペンス『わたしたちに翼はいらない』④

感涙! 最旬作家・寺地はるな特集

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他人を殺す。自分を殺す。どちらにしてもその一歩を踏み出すのは意外とたやすい―。最旬の注目度No.1作家・寺地はるなさんが描く長篇『わたしたちに翼はいらない』は、「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらすまでのサスペンス。同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らすシングルマザー・朱音、離婚したくてもできない専業主婦・莉子、自殺を考える独身男性・園田は、いじめ、ママ友マウント、モラハラ夫、母親の支配など心の傷を抱えています。そしてやがて…。本日から5日連続で本作の一部を特別公開いたします。

「じゃあ、気をつけて」
 マンションの駐輪場で自転車を停めた朱音あかねは、宏明ひろあきに向かってことさらに明るい声を出した。昔は、どうしてもこういう声が出せなかった。「声が小さい」「覇気はきがない」と小学校に入ってから高校を卒業するまでずっと先生に指摘され続け、指摘されると緊張でなおさら気道が狭まるのか、よけいに声が小さくなった。大学生になって、コンビニでアルバイトをはじめたら、お金をもらっているという意識が朱音に大きな声を出させ、笑顔をつくらせた。大きな声でしっかりとあいさつをし、誰かの冗談ににっこり笑うと、それだけで周囲の人は「しっかりしてる」「感じのいい人」と評価してくれる。こんなに簡単なことだったのか、と驚かずにはいられなかった。
「元気で」
 朱音がそう言っているにもかかわらず、宏明はまだぐずぐずと足元に視線を落とし、自転車の後ろに取り付けた子ども用シートに乗せられたままの鈴音に手を伸ばす。
「いいから、もう行って」
 朱音は鈴音の安全ベルトを外してやる。地面に降りたった鈴音はそのまましゃがみこんで、アリを観察しはじめた。宏明が一緒になってアリを見ようと腰をかがめかけたので、今一度「遅くなるといけないから」と声をかける。